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マリウス

共和政ローマ時代の将軍で、前107年に市民軍原則の軍制を改め、無産市民の志願者による職業的軍人を主力とした軍制に改め、ユグルタ戦争、ゲルマン人との戦争で勝利して名声を高めた。元老院の政権独占に不満な人々の支持を受け平民派の代表的存在となると、閥族派のスラと対立、「内乱の一世紀」という混乱の始まりとなる死闘を繰り返した。

 マリウス Gaius Marius (前157年~前86年)は、ローマ平民(プレブス、農民)出身の軍人で、護民官を務めた後、ユグルタ戦争(前111年~前105年、北アフリカのヌミディアの王ユグルタが起こした叛乱)に従軍した。当時はグラックス兄弟の改革が失敗した直後で、中小農民の没落が進んだため、市民軍は弱体化しており、ローマ軍の苦戦が続いた。北アフリカでのユグルタ戦争が泥沼化したとき、北イタリアではゲルマン人が南下する勢いをしめし、さらにガリアではケルト人が蜂起し、ローマ兵が8万人も殺されるという事態が起こった。

「新人」マリウス

(引用)ローマが軍事的、社会的に追いつめられた状況にあるとき、彗星のごとく歴史の舞台に登場したのがガイウス・マリウスです。執政官を過去に輩出したことのある名門貴族の家系とは異なり、マリウスがその家系ではじめての執政官であるため「新人」という差別に甘んじざるをえない市民でしたが、ユグルタ戦争を実質的に終結させ、ゲルマン人を阻止し、ケルト人にも一矢をむくいたのはマリウスその人だったのです。<青柳正規『ローマ帝国』2004 岩波ジュニア新書 p.61>
 マリウスは、前107年執政官に選出されると、全面的な兵制改革に着手、無産市民からの志願兵を集め、職業的な軍人を育成した新たな軍を組織し、ユグルタ戦争の指揮を執って前105年にユグルタを降伏させ、ローマ軍を勝利に導いた。これを「マリウスの兵制改革」といい、ローマの軍事的基礎を従来の市民から徴発する兵士による市民軍から職業軍人と傭兵に転換させ、有力者がその軍団を私兵として養う体制に転換させた。
 さらに前101年には北方のガリアから侵攻してきたゲルマン人(キンブリ人、テウトネス人)が大きな脅威となっていたが、マリウスのローマ軍はそれを撃退した。さらに新しい軍隊は、東方のミトリダテス戦争でも活躍した。

Episode 「決断と実行の人」

(引用)民主制が危機に陥ると必ず、「決断と実行の人」が必要だとささやかれはじめるものだが、マリウスはその待望の人物と見なされたわけだ。見当違いもいいところだったが、当分はかれが都の英雄である。ローマは法規を無視してかれを六年連続して執政官に選ぶことをきめる。……
 マリウスは徴兵制ではもうだめだということを見抜いていた。有産市民は惰性的に兵役義務に従っているだけで、本心から好んで武器をとっているわけではなかった。そこでかれは、無産民に目をつけ、高い給料、掠奪の許可、土地の配分を餌に釣り寄せる。要するに国民軍を傭兵軍に代えたのである。この変革はまさに革命的であり、長い目で見ればこれがローマの命取りになるのだが、さし当たりローマの頽廃がそれを必要としている。<モンタネッリ/藤沢道郎訳『ローマの歴史』1979 中公文庫>
※現在の日本でも「決断と実行だ」といって多数決でなんでも押し切り、原理原則を吹き飛ばしてしまう政治家がいる。のちにムッソリーニを生んだイタリアの歴史家モンタネッリの言葉は重い。

マリウスの兵制改革

 マリウスはローマ軍の再建に着手、兵制改革を実施した。それは、有産市民からの徴兵制をやめ、無産市民から給与の支給、掠奪の許可、土地の配分を条件に志願兵を募るという職業軍人制に転換するというものであった。これによって軍を立て直したが、ローマ共和政を支えた有産市民が重装歩兵として共同体の戦争に当たるという原則は終わり、職業軍人あるいは傭兵に依存する国家に変質した。このマリウスの登場と兵制改革によって、ローマ共和政は内乱の1世紀を経て、帝政へと転換することとなる。

平民派の出現

 マリウスは国家の最高官職である執政官(コンスル)として兵制改革を行い、ローマを勝利に導いたことから高い人気を誇り、さらに異例の6年連続で執政官に当選した。任期を1年に限定し、1期で終わるのが通例であった執政官に何度も当選した背景には、従来の貴族層(新貴族・ノビレス)が占める元老院に権力が独占されていることに不満な騎士・エクイテスと言われる新興勢力の支持があったからであった。
 ガリアでのケルト人との戦争でも大勝したマリウスは、奪った戦利品と領土を贈与され、大富豪・大土地所有者となった。彼自身は政治には無関心であったが、新興勢力である騎士階級は、マリウスの名声を利用して元老院の権威に対抗して実権を握ろうとし、棟梁として仰ぐようになった。彼らは平民派と言われるようになったのに対して、元老院に依拠する貴族(新貴族も含め)たちは既得権を守ろうと、閥族派に結束した。

スラとの死闘 「内乱の一世紀」の始まり

 前1世紀に入ると、マリウスとスラの、言いかえれば平民派と閥族派の激しい、血なまぐさい抗争がくり広げられる。これは政治的な理念の対立から来るものではなく、激しい私憤にもとづき、それぞれが私兵軍団を動員して戦う主導権争いであった。ローマ史上「内乱の1世紀」の始まりといわれるこの抗争の詳細に立ち入ると、限られた世界史学習の時間を無駄にしかねないので省略したいところだが、いったいこの二人はどんな戦いをしたのだろうか、古代の権力闘争のおぞましい事実を知っておくのも無駄ではない。
マリウス、平民派を裏切る 前99年、執政官選挙の時、マリウスの人気を楯にした平民派の護民官サトゥルニヌスは、暴力団を差し向けて保守派の候補者を暗殺した。元老院は公正な事件処理をマリウスに命じたが、すでに「年老い、肥満し、大酒飲みになっていた」マリウスはためらいながらも元老院の要求を入れてサトゥルニヌスらが保守派に殺されるのを認めた。平民派、閥族派双方から信用を失ったマリウスは「怨念をいっぱい胸にはらんで」引退し、東方(小アジア)への旅に出る。
同盟市戦争 前91年同盟市戦争が起こると、「待望の英雄」マリウスはふたたび呼び出されて軍の指揮を取り、反乱軍を厳しく弾圧した。マリウス軍の劫掠と殺戮はイタリア全土を覆い、両軍で30万の戦死者が出た上で、イタリア人に市民権をあたることを条件に武装を解除した。しかし、戦争指導の主導権は副官だったスラに移っていった。スラは反マリウス派を結集した閥族派の中心人物となった。
ミトリダテス戦争 前88年に小アジアでミトリダテス戦争が起きると、スラは栄誉を得る機会と考え、その司令官に任命されることを望んだ。マリウス派の護民官スルピキウスがそれに異を唱え、マリウスを総司令官に選任すると、スラは軍を率いてローマに進軍、楽勝で覇権を握り、スルピキウスは逃れる途中、奴隷に殺され、マリウスはアフリカに逃れた。そのうえでスラは国内の法整備を図り、執政相当官(プロコンスル)の肩書きで全軍の指揮権を掌握し、新たな執政官の選挙を実施、ミトリダテス討伐のために小アジアに向かった。
マリウスのクーデタ スラ不在のローマで二人の執政官、平民派のコルネリウス=キンナと閥族派のオクタウィウスはことごとく対立、ついに武力衝突に発展、不利になったキンナはアフリカのマリウスを呼び返した。
(引用)この報を受けたマリウスは急遽アフリカを出発、ぼろの長衣(トガ)、すり切れた靴、伸び放題のひげ、むき出しの傷痕というヒッピー・スタイルで一瞬のうちに奴隷を主とする六千の兵を集め、キンナと合流し、無防備に近い首都になだれ込む。殺戮は無限に続く。オクタウィウスは元老院の議席で平静に死を迎える。保守派の議員たちの首は槍先に刺して路傍に晒す。革命法廷は数千の貴族(パトリキ)に死刑を宣告、スラは罷免され、親族縁者はことごとく殺されたが、妻のカエキリアだけは逃げおおせてギリシアで夫と再会する。<モンタネッリ/藤沢道郎訳『ローマの歴史』1979 中公文庫 p.177>
マリウス・キンナの恐怖政治 前87年、7度目の執政官に選出されたマリウスは、キンナと共に徹底したスラ派に対する虐殺を敢行、恐怖政治を布いた。
(引用)マリウスとキンナが執政に就任、残忍な恐怖政治が丸一年続き、禿鷹と野犬が埋葬を許されぬ屍体を道ばたで食い荒らしていた。奴隷たちは掠奪、暴行、放火を続け、無政府状態がひろがった。キンナはこの奴隷暴動を鎮圧するためにガリア人部隊を使った。ローマの秩序回復のために外国兵を使ったのは、史上初めてのことであった。<モンタネッリ『同上書』 p.178>
スラの勝利 翌86年、マリウスは死去し、キンナが独裁権力をにぎった。このとき、スラはアテネ攻囲中であり、兵士に掠奪を認めて、征服に成功した。ミトリダテスとは講和を早め、前83年にローマに戻ると、キンナとマリウスの遺児小マリウスは元老院議員を虐殺した上でローマを放棄し、ブレネステに逃れた。スラは小マリウスを追撃し、10万のマリウス軍は半分が戦死し、小マリウスは自殺、その首はローマに晒された。政権奪回に成功したスラは、前81年、ローマに凱旋した。
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モンタネッリ/藤沢道郎訳
『ローマの歴史』
中公文庫

青柳正規
『ローマ帝国』
2004 岩波ジュニア新書