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平民派/民衆派/ポプラレス

共和政ローマ末期の混乱期に元老院に対抗して民会を基盤として台頭した政治党派。マリウスに始まり、カエサルも平民派とされる。

 ローマ共和政末期に現れたポプラレス populares と言われた党派で、民衆派ともいう。民会を基盤として、元老院とは対立する政治的立場の有力者たち、血統にとらわれず実力で地位を獲得した騎士(エクイテス)といわれる人々に多い。その代表はマリウスで、前107年に執政官となり、ユグルタ戦争を勝利に導き、兵制改革を行った。その後、元老院の閥族派が復活して一時政権を追われるが、前87年、マリウスとともにキンナが執政官となって閥族派を粛清した。その後も両派の対立は前1世紀の「内乱の1世紀」の間、繰り返される。マリウスの血縁であるカエサルも平民派として登場した。

閥族派との違い

 平民派といっても彼らは平民だったわけではないことに注意しよう。党派を形成しているのは広くいえば貴族である点では閥族派と違いはない。違いは、同じ貴族でも閥族派は元老院議員となることのできる名門貴族であるのに対して、平民派の多くは元老院議員となることのできない騎士(エクイテス)といわれる新興貴族階級であることである。なお、新貴族(ノビレス)は共和政末期では元老院議員に加えられているので、この時点での新興貴族層とはいわない。元老院を基盤としているかいないか、は大きな違いなので、次のように図式化できる。
 閥族派=元老院議員などの名門貴族=保守的
 平民派=騎士階級などの新興富裕層=革新的
 これはあくまで大きな傾向を示しているに過ぎず、実際には流動的である。名門貴族も新興富裕層も社会の支配層であることには違いはない。また、それぞれの支持基盤はいずれも民衆であり、それぞれの党派の有力者の武力を支えているのはいずれも没落して彼らの私兵となった貧困層でありことも共通している。つまり、閥族派と平民派の対立は、階級的なのではなく、また思想の違いでもない。平民派はその主張が元老院の既得権に反対することが多かったので、改革派と見られた。従って平民派に属するからといって、その人が民主的な、あるいは大衆的な政策をとったわけではない。

参考 「平民派」の意味

(引用)民衆派とは、ポプラーレスというラテン語の訳語であり、それはポプルス=「国民あるいは民衆」からきた語で、「民衆的な」政治家の意味である。しかし、その本質は、現代人の考えるような意味での「民衆的」あるいは「大衆的」なものではなかった。閥族派が、あくまで元老院を中心に政治を運営してゆこうとしたのに対して、この民衆派は、民会を自分たちの政策遂行の足がかりとしようとした人たちをさしたのである。決して、彼らとて、一般大衆のなかからあらわれた政治家ではなかった。貴族政社会であるから、政治家は、閥族派的な立場に立とうが、あるいは民衆派的な生き方を選ぼうが、彼ら自身は元老院議員であり、せいぜい下がっても騎士身分出の人たちであった。<長谷川博隆『カエサル』1994 講談社学術文庫 p.54>

平民派=ポプラレスの主張

 オプティマテスとポプラレスは、19世紀の著名なローマ史家モムゼン(1902年のノーベル文学賞受賞者)が、イギリスの議会政治における二大政党になぞらえて説明したことから、それぞれ支持基盤の異なる政策をもつ党派のように理解されてきたが、それは誤っている。現在では両者の相違は政治的綱領の差なのではなく、政治的手法(オプティマテスは元老院多数派の権威によって現体制の維持を図ろうとし、ポプラレスは民会で政治目標を実現することを目指した少数派)の違いと理解されている。
 しかし、ポプラレスには共通のスローガンとして「土地や穀物の分配」「秘密投票」「法廷の改革」「新市民の公正な登録」など一般市民の利害を代弁するものが主張されていたのも事実である。それに対して多数派であるオプティマテスには共通の具体的な政策や主張は認められない。<島田誠『古代ローマの市民社会』世界史リブレット3 1997 山川出版社 p.49-50>
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書籍案内

長谷川博隆
『カエサル』
1994 講談社学術文庫

島田誠
『古代ローマの市民社会』
世界史リブレット3
1997 山川出版社