印刷 | 通常画面に戻る |

パトリキ/貴族

古代ローマにおける世襲的な貴族階級。都市国家形成期の指導者たち(パドレス)の子孫として特権が認められ、王を追放して前509年に貴族共和政を樹立した。その後、平民の身分闘争に妥協しながら元老院を基盤とした支配権力を長く維持した。

 ローマ共和政時代の世襲貴族。土地と奴隷などの豊かな財産をもち、都市の上層部を形成する市民で、元老院議員や執政官(コンスル)の地位を世襲して独占した。彼らは建国に功績のあった人「父たち」(パドレス)の子どもたちという意味でパトリキと言われた。伝承によれば彼らはエトルリア人の王を追放して前509年に、貴族共和政をうちたてた。貴族は大土地を世襲し、奴隷を所有するほか、有力者としてプレブス(平民)を保護した。貴族の保護を受け服従する人をクリエンテスという。

平民との身分闘争

 貴族(パトリキ)は、次第に身分的な特権を独占しようとして、いわゆる「パトリキの身分封鎖」を行い、平民が新たに貴族になることができないようにした。具体的にはプレブスのパトリキとの通婚を禁止した。これによって、平民はパトリキの共同体に加入できなくなり、身分が固定化されることになった。平民の中には商業で豊かな富を得、その力で武器を自弁して重装歩兵として都市国家の軍事力の中心になったにもかかわらず、貴族になる道は閉ざされ、不満を募らせることになった。また、プレブスの多くは戦争によって公有地が拡大されても、有力な貴族に占有されてしまい、経済的な困窮に陥るものも現れ、貴族の特権に反発するようになった。
 平民の身分に対する不満は前5世紀初めの聖山事件となって表面化し、それ以後前4世紀中頃まで身分闘争が展開されることになる。貴族側も、都市国家ローマは平民が重装歩兵として戦争に参加することによって維持されていることを認識していたので、妥協を図らざるを得なくなった。
 聖山闘争の結果、平民会護民官が設置され、さらに十二表法で法が貴族と平民に平等に公開され、次いでカヌレイウス法で通婚が認められた。さらに前367年のリキニウス・セクスティウス法ではコンスルの一人は平民から選ぶこととなり、貴族の公有地占有は制限されることになった。これによって貴族と平民の身分的な違いは実質的に解消された。前287年にはホルテンシウス法で平民会の決議が国法として認められたことによって平民を主体としたローマ共和政が完成した。このローマの共和政の形成過程は、同時にローマの半島統一戦争と重なっており、ローマは単なる都市国家にとどまらず、海外にも進出するようになる。

新貴族(ノビレス)

 前367年にリキニウス・セクスティウス法が制定されて、ほぼ貴族と平民の権利の差が無くなると、平民出身で元老院議員となる者も現れた。そのような新興の貴族を新貴族(ノビレス)という。旧来の貴族は血統貴族として世襲されたのに対し、新貴族は官職に付くことで貴族となるので官職貴族とも言えるが、一定の財力と親戚家系や保護=被保護の関係がなければ貴族にはなれないので、事実上は特定の家系に限定された。このような新貴族が加わり、全体として貴族層は元老院を基盤として依然として権力を維持していた。

騎士階級の台頭

 それに対して、前3~2世紀のポエニ戦争以降、属州の徴税請負人などになって利益を得て有力となった新興勢力が現れる。それを騎士(エクイテス)階級という。この新興階級の中から軍事力を握って政治の実権を獲得しようする勢力が台頭した。彼らは元老院を拠点とした貴族の既得権に挑戦し、平民の支持を受けたので平民派といわれ、それに対して貴族たちの既得権を守ろうとする勢力は閥族派と言われるようになり、両派は激しく対立、それが前1世紀の「内乱の1世紀」といわれる時代であった。

ローマ帝国の貴族

 カエサルの後継者のオクタウィアヌスが権力を握ってアウグストゥスとなり、ローマ帝国が成立するが、アウグストゥスは元老院と妥協することによって権力を維持しようとしたので、ローマ帝国時代となっても共和政時代以来の世襲的な貴族は元老院議員として存続した。しかし、実際には皇帝による専制政治化が次第に強まり、元老院も形骸化して、貴族の実態は消滅する。 → ギリシアの貴族 貴族(中国その他)
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

島田誠
『古代ローマの市民社会』
世界史リブレット3
1997 山川出版社