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ホルテンシウス法

前287年、古代ローマで平民会の決議を国法とすることを定めた法律。ローマの身分闘争は終結し、共和政体が完成した。

 平民(プレブス)の出身で、独裁官(ディクタトル)であったホルテンシウスが、前287年に制定した。都市国家ローマ民会のひとつであり、平民の代表機関である平民会の決議が、貴族のより所であった元老院の承認が無くとも、ローマの国法とされることとなった。これによって前5世紀から続いた貴族と平民の身分闘争は終結し、平民が貴族と対等の権利を獲得し、ローマ共和政は完成の時期を迎えた。

経過と背景

 都市国家であった古代のローマでは、貴族共和政のもとで、貴族(パトリキ)の権力独占に対する平民(プレブス)の反発から、身分闘争が続いていたが、前367年に制定されたリキニウス・セクスティウス法によって最高官のコンスルの一人を平民出身とすることなどが定められて、両者の法的身分がほぼ平等となった。また平民の没落を防止する措置が執られて、重装歩兵市民団の分裂回避がはからるようになった。
 こうして態勢を整えたローマは半島統一戦争を押し進め、サムニウム戦争の勝利によって前290年までに中部イタリアを支配するまでになった。
 しかし、新たな領土は有力者に分配されたため、平民の中の貧富の差が再び拡大し、不満を持った一部の平民がローマから退去して近くの山に籠もるという、かつての聖山事件を再現する動きを見せ始めた。その危機を克服する課題に立ちむかい、独裁官(ディクタトル)に就任したホルテンシウスは、平民会の決議を元老院の承認が無くともローマの国法とするという法律を成立させ、平民の離脱、反抗を防止することに成功した。おそらく平民の負債の解消に関する改革も行ったと思われるがその内容は伝わっていない。

平民会の国制機関化

 ホルテンシウス法によって平民会の決議が国法とされたことにより、その決議がローマ市民全体を拘束することになることから、パトリキ(貴族)も平民会に出席するようになった。こうして全市民が参加することになるとともに、投票単位はトリブス(居住区)とすることになったので、平民会は「トリブス会」といわれるようになり、国制上の正式の民会となった。(平民会はそれまで平民=プレブスだけが参加するものだったので、正式な国政上の民会とは認められていなかった。)
 平民会はもう一つの民会である兵員会よりも手軽に開催できので、立法機関として使われるようになり、平民会の議長である護民官元老院に出入りするようになった。護民官にはプレブス出身者も選出されたので、プレブス出身者が元老院の議員となることもできるようになった。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』初版1967 再刊1993 講談社学術文庫 p.142 などによる>
 ホルテンシウス法の制定によって、リキニウス・セクスティウス法制定以来、プレブスに対する高官の地位の開放が進み、新たに高官となったプレブスの中から、新貴族(ノビレス)といわれる人びとが現れ、彼らが新しい権力を獲得していく時代が近づいていった。