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サムニウム人/サムニウム戦争

前4~前3世紀、ローマがイタリア半島中南部のサムニウム人諸都市を3次にわたる戦争で制圧。同時期にラテン同盟戦争も行われ、ローマの半島統一戦争が進められた。

 中部イタリアの都市国家の一つにすぎなかったローマであったが、前367年のリキニウス・セクスティウス法制定までに、ローマ共和政の国家体制をつくりあげ、平民を重装歩兵とする強力な戦力を持つに至った。それによって前4世紀後半から、周辺の都市に対する征服活動を展開した。このサムニウム人・ラテン同盟都市との戦争が、ローマの半島統一戦争の前段階となった。

イタリア半島中部の制圧

 まずローマの制圧する対象となったのは、サムニウム人と、ラテン人の都市国家であった。サムニウム人とはイタリア人の一派で、ラテン人より南の半島中部(カンパニア)から東南部のアペニン山脈で牧畜を主に生活していた人々で勇猛な戦士を擁していた。彼らは都市を造らず部族連合国家を形成していた。ローマは前4世紀後半からサムニウム人への攻勢を強めた。
第1次サムニウム戦争 前343年~前341年 サムニウム人の都市カプアが山地の同じサムニウム人から攻撃され、ローマに支援を要求。このサムニウム人の内紛に乗じてローマはカンパニアに進出した。カプアはかえってローマの支配を恐れ、反旗をひるがえしたが、ローマはそれを破り、カンパニアを併合した。
第1次サムニウム戦争の意義 第1次サムニウム戦争でローマはイタリアでも最も肥沃なカンパニア地方を獲得した。さらにこの戦争はローマが同盟都市の支援要請に応じて共通の敵と戦い、戦勝後はその地域を実質的に支配するという、これ以後ローマが繰り返していく「帝国主義」戦争の端緒となった。<青柳正規『ローマ帝国』1994 岩波ジュニア新書 p.35>
ラテン同盟戦争 ラティウム地方のラテン人諸都市はローマを盟主としてラテン同盟を結んでいたが、独立を脅かさると危機感を持ち、翌前340年、ローマに戦いを挑んだ(ラテン同盟戦争)が、前338年に敗れた。周辺の都市との全面的な戦争に勝利したローマはラテン同盟を解消した。プアエネステやティブルなど有力都市は名目上の独立が認められ、ラティウム地方の住民はラテン権というローマ市民権に次ぐ権利が与えられた。
ラテン同盟戦争の意義 ローマは征服したラテン人の諸都市に対して、個別に同盟関係を結んで支配したが、都市同士が同盟を結ぶことを禁止した。このような「分割して統治せよ」という支配の原則はこれ以降のローマの「帝国主義」支配でも継承される「分割統治」の始まりであった。
第2次サムニウム戦争 前326~前321年/前316~前304年 前341年には和解したサムニウム人との関係が悪化。前321年のカウディウムの闘いでは待ち伏せに遭ったローマ軍が降伏した。その後も断続的に闘いが続き、ローマは苦戦したが、前305年にようやくそれを破り、ローマの勢力がアドリア海に達した。この戦争に際して、前312年、ローマはアッピア街道を建設した。
第3次サムニウム戦争 前298~前290年 サムニウム人はエトルリア人、ウンブリア人(ローマ北方の山地民)、ガリア人と同盟を結びローマと対抗、イタリア半島全域をまきこむ大戦争となったが、ローマ軍が重装歩兵部隊の活躍で各地で勝利をおさめ、サムニウム人以下の諸種族を服従させた。前290年、サムニウム戦争が終わり、ローマのイタリア半島中部の制覇が達成された。

ホルテンシウス法の制定

 これらの戦争で都市国家ローマの支配領域はイタリア中部に広がった。その結果、重装歩兵として戦争を押し進めた平民(プレブス)の中に、土地を分配されて富を獲得した有力者とそうでないものとの差が拡大し、不満が強まった。前287年、それを解消する目的で制定されたのがホルテンシウス法で、それによって平民会の決議が元老院の承認なしに国法とすることによって平民の不満を解消した。
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青柳正規
『ローマ帝国』
2004 岩波ジュニア新書