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東ローマ帝国

395年のローマ帝国の東西分裂以降、コンスタンティノープルを都としたローマ帝国の後継国家。後にギリシア化が進み、ビザンツ帝国といわれるようになる。

 395年テオドシウス帝の長子アルカディウスから始まる。都はコンスタンティノープル。ゲルマン民族の侵攻を受けたが、彼らはさらに西方に移動したため、東ローマは領土を維持することが出来た。東ローマ帝国は、自らはローマ帝国の継承国家であるとして、正式には常に単に「ローマ帝国」と名のっていたが、コンスタンティノープルの旧名ビザンティオンから、次第にビザンツ帝国と言われるようになる。

ユスティニアヌス大帝の時代

 6世紀のユスティニアヌス大帝は、国力を高めて西地中海方面に進出を図り、533年にベサリオス将軍を派遣して北アフリカ、旧カルタゴの地を支配していたゲルマン人の国ヴァンダル王国を征服、さらに535年からはイタリア半島の東ゴート王国との激しい戦争の結果、555年にはそれを滅ぼし、イベリア半島の一部も西ゴート王国から奪い、かつてのローマ帝国の支配領域であった西地中海をほぼ回復した。東ローマ帝国は北イタリアのラヴェンナに総督府を置いてイタリアを支配、かつてのローマ帝国の繁栄を一時的に復活させた。

西地中海の喪失

 しかし、東ローマ帝国による西地中海支配は長くは続かず、最後のゲルマン民族の移動と言われてイタリアに侵入していたランゴバルトのランゴバルド王国が、751年に東ローマ帝国の総督府の置かれたラヴェンナを攻略し、イタリア半島南端を除いて東ローマは西地中海から後退し、その後はコンスタンティノープルを都として、ギリシア・小アジア一帯の東地中海地域を支配する国家となっていった。そのころから、ローマ文化とキリスト教はこの帝国に継承され、同時にギリシア色が強まっていったことから、コンスタンティノープルのギリシア時代の古名であるビザンティオンから、この国は次第にビザンツ帝国と言われるようになる。

ササン朝・イスラーム帝国との抗争

 東方では、パルティアの後継国家であるササン朝ペルシアとの抗争が長く続いていた。このビザンツ帝国とササン朝の抗争は、それまでの東西交易の基幹ルートであった東地中海からシリア・メソポタミアからイランやインド、中央アジアを結んできた交易路を次第に衰退させることになり、それに代わって活発になった紅海沿岸ルートが新たな交易路として盛んになっていった。このような変化の中から、7世紀にはアラビア半島の紅海沿岸のヒジャース地方の商業の中心地メッカにムハンマドが現れ、イスラーム教が成立する。
 イスラーム勢力は政教一致の態勢をとり、急速に周辺を教化すると共に帝国支配を拡大していった。7世紀以降のビザンツ帝国はこのイスラーム勢力の攻勢により、次第に領土を縮小させていことになる。しかし、北アフリカ、シリア、小アジア、バルカン半島と領土を次々と縮小させながら、ギリシア正教会の宗教的な支配のもと、独自のビザンツ文化を維持し、1453年まで、1000年以上存続する。 → 詳細はビザンツ帝国を参照してください。
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