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ポンペイウス

前1世紀のローマ共和政時代の軍人で、スパルタクスの反乱の鎮圧、ミトリダテス戦争などで活躍。はじめ閥族派であったが、民衆の支持が強まるとの平民派に変わった。前60年からカエサル、クラッススと三頭政治を行う。後にカエサルと対立して敗死した。

 ポンペイウス Gnaeus Ponpeius Magnus (前106~前48年)は、ローマ騎士(エクイテス)階級の出身で、ローマ共和政末期の「内乱の1世紀」といわれた紀元前1世紀に活躍した軍人、政治家として重要である。
 はじめ、スラの腹心の閥族派に属する軍人として頭角を現し、マリウスなどの平民派弾圧に活躍した。ヒスパニア遠征でイベリア半島のセルトリウスの反乱を鎮圧、ついで奴隷反乱であるスパルタクスの反乱を壊滅に追いこみ、前70年、クラッススとともに政務官未経験にもかかわらず異例の執政官に選出された。

閥族派から親平民派へ

 執政官としては元老院と対立するようになり、護民官権限を復活させるなど、市民大衆の支持を受けて平民派寄りの施策をとった。前67年には元老院から全面的な権限を与えられて、地中海の海賊討伐に向かい、わずか40日で平定するなどで名声を高めた。
 さらに前66年に小アジアに遠征し、前88年以来続いていたポントス王ミトリダテスの反抗をようやく鎮圧することに成功(第3次ミトリダテス戦争)し、それに付随してシリアとポントスの属州化、アルメニアの保護国化、パレスチナの貢納国化などによってローマの東方領土拡大を実現した。

最有力者となる

 ポンペイウスは、軍人として地中海世界のイベリア半島、アフリカ北岸、小アジア、シリアを転戦し、赫々たる戦果を上げた。その彼をスラは「インペラトル」(本来は独裁官を意味するが、この時は公式な官職ではなく、大将軍というような呼称)と呼び、スラの死後はみずからも「マグヌス」(偉大な、の意味)を添え名として称した。名声と共に土地や財産を貯え、自分に従った兵士には報償として土地を与え、また支持者には贈り物によって結びつきを強め、大きな勢力を持つようになった。そのため、当時のもう一人の有力な将軍クラッススとは関係が悪化していった。また、元老院の中にも、ポンペイウスは独裁者をめざすのではないか、という警戒心が強まった。こうして彼は、もとは閥族派であったが、ローマの大衆には人気が高く、平民派と見なされるようになった。

第一次三頭政治

 元老院議員でありながら、大衆に人気のあったカエサルは、前60年にポンペイウスとクラッススの間を取り持ち、自らを加えて第1回三頭政治を作り上げた。これは、元老院に対抗するための、私的な政治同盟であり、権力のバランスを取るためのものであった。三人は、権力を分担すると共に、勢力圏の分割を行い、ポンペイウスは父以来の拠点である属州ヒスパニアの支配権を認められた。ポンペイウスは、カエサルの娘ユリアを妻としていたが、前54年にはユリアが死去したため両者の関係は次第に冷たくなっていった。

ローマの内乱

 前53年、クラッススがパルティアとの戦争で戦死してこのバランスが崩れると、カエサルとの対立が避けられなくなっていった。カエサルが反元老院の立場を強めると、ポンペイウスは元老院保守派と結ぶようになり、カエサルの排除を図った。しかし、カエサルがポンペイウスとの全面対決を決意してガリア遠征から戻ると、恐れて元老院ともどもローマを捨ててブルンディシウムからギリシアに渡った。追撃するカエサル軍との間で、前48年8月9日、ファルサロスの戦いの幕が切って落とされ、ポンペイウス軍は惨敗した。ポンペイウス軍はちりじりになり、彼は小アジアからエジプトに向かった。
エジプトでの死 かつてプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス12世(クレオパトラの父)に資金援助し、その即位を助けた縁があったからだった。しかし、ポンペイウスとカエサルの双方の軍でくりひろげられた「ローマの内乱」は、前48年、ポンペイウスがアレクサンドリア上陸を前に、エジプトの廷臣の謀略によって殺されたことで終結する。ポンペイウスはアレクサンドリアで再起をはかったが、エジプトの廷臣たち(この時クレオパトラは追放されていた)は上陸用の小舟に彼を乗せ、不意を突いて殺害、その首をカエサルに献上して歓心を買おうとしたのだった。しかし4日後にアレクサンドリアに上陸したカエサルは、好敵手の無慙な死を嘆き、廷臣たちを罰し、クレオパトラを復権させることになる。
 ポンペイウスはカエサルと争って敗れたので、「悪役」とされることが多いが、軍人・政治家としてすぐれた資質を持ち、その他にも都ローマの造営にも力を注ぎ、従来の中心地フォルム・ロマヌムに対してその北方に位置するカンプス・マルティウス地区の開発を行い、ポンペイウス劇場を建設したことなど、ローマ史で重要な存在であった。

Episode ポンペイウスの不幸な政略結婚

 スラは独裁官になると武勇にすぐれたポンペイウスを「大将軍」と呼んで持ち上げ、なんとしても縁を結びたいと考え、妻メテラの賛同を得てメテラと先夫の子でスラの義娘となっていたアエメリアと結婚させようとした。しかしポンペイウスはすでに法務官アンティスティウスの娘アンティスティアと結婚していたので、説得して離婚させた。ところがアエメリアはすでに他の人との間の子を身籠もっていたのだった。
(引用)まことにこの縁組みの一件は専制支配者なればこその物語であり、ポンペイウスの生活態度よりはむしろスラ自身の便宜から発したものであった。すなわち、アエミリアは妊娠したまま他人の家からポンペイウスのもとに輿入れをさせられ、他方アンティスティアは、不面目にも夫の家を追われて哀れをとどめたが、彼女は先ごろ夫のために父を亡ったばかりのところであった。すなわち、アンティスティアの父は、婿ポンペイウスゆえにスラに与する者であると見做され、元老院で殺害されたのである。アンティスティアの母は、この出来事を目撃すると、すすんでみずから命を絶った。かくて、ポンペイウスの結婚をめぐる悲劇には、一つの不幸が加わったのである。否、不幸はそれだけにとどまらなかった。実にアエミリアその人も、ポンペイウスのもとに嫁するや、ほどなく産褥で帰らぬ人となった。<プルタルコス/吉村忠典訳『プルタルコス英雄伝』下 ポンペイウス伝 ちくま学芸文庫 p.73>

Episode 懲りないポンペイウスの政略結婚

 カエサルが自己の執政官選出の条件として三頭政治を提案すると、ポンペイウスは易々とその申し出を受け容れた。
(引用)しかし、その後の歴史が明らかにした所によれば、彼は完全にカエサルに心をゆるし、彼の言いなりになった。カエサルの娘ユリアは、カエピオという青年と婚約中で、近日中に輿入れをする予定であったが、ポンペイウスはこれを娶って世人を唖然たらしめたうえ、カエピオには、その憤懣を鎮めるため、スラの息子ファウストゥスと婚約中であった自分の娘を与えようとした。カエサル自身は、ピーソーの娘カルプルニアを室に入れた。<プルタルコス『同上書』 p.125>
 ポンペイウスはこの若妻を愛し、若妻も夫によく仕えた。しかし不幸なことに二人の間の子を産むときにユリアも産褥で死んでしまった。ユリアの死によってカエサルとの関係が冷却すると、ポンペイウスはパルティアと戦いで父クラッススとともに戦死したプブリウス=クラッススの未亡人コルネリアと再婚した。この歳の離れた妻は才色兼備の女性で、ポンペイウスはこの女性も深く愛したという。
 カエサルとの戦いが始まりローマを逃れたポンペイウスはコルネリアも伴っていた。前48年、ギリシアのファルサロスの戦いで敗れたポンペイウスは、なんとパルティア王国への亡命を考えた。しかし先夫を殺した敵国にコルネリアを伴っていくのはさすがに憚られ、やむなくプトレマイオス朝のエジプトをめざすこととなった。

ポンペイウスの死

 ポンペイウス一行は櫂船でエジプトに向かった。そのころプトレマイオス朝エジプトはファラオの地位をめぐってプトレマイオス14世とクレオパトラが争っていた。ファラオのプトレマイオスの取り巻きたちは、ポンペイウスを受け容れて殺害し、カエサルに取り入って支援して貰おうと考えた。浅瀬に櫂船は入れないので小舟をこぎ寄せ、ポンペイウスとわずかな近習だけを乗せ、海岸近くまで来たところで彼を刺殺した。櫂船から見ていたコルネリアらは嘆き悲しんだが、エジプト船の取り手を逃れてローマに帰った。
 ポンペイウスを追ってカエサルがアレクサンドリアに到着したとき、ポンペイウスの死を知り、首を受けとるとハラハラと涙を流し、その殺害を行った宦官らを処刑、王を追放した。ポンペイオスの首はカエサルによってローマのコルネリアの元に送られ、コルネリアはアルバの別荘に埋葬した。<プルタルコス『同上書』 p.170>
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プルタルコス
/村川堅太郎他訳
『プルタルコス英雄伝』(下)
ちくま学芸文庫