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ポリスの市民

古代ギリシアのポリス民主政のもとでの市民つまり市民権を認められた者は成人男子であり、重装歩兵としてポリスの防衛に当たり、奴隷を所有していた。

 ポリス(都市国家)の構成員を市民といい、通常はそのポリスに居住する一定の範囲の成人(18歳以上)男子のことで、生まれや財産額などで条件を満たした者をいうが、その範囲はポリスごとに異なる。
 代表的なポリスであるアテネでは、前7世紀には土地からあがる大麦・小麦・ブドウ酒・オリーブ油などの収穫量によって、市民は4つの等級に分かれていた。第1級は年に穀物500メディムノスを出す土地を持つもので、「500メディムノス級」と言われた。第2級は、500~300メディムノスの土地を所有し、馬を養い戦争には騎馬で参加するので「騎士級」といわれた。第3級は300~200メディムノスの土地を持ち、「農民級」といわれた。第4級は200メディムノス以下の小農や手工業者で、「労働者級」といわれた。アルコン(執政官)になれるのは上位2級でこれが貴族、第3級・4級が平民ということになる。

アテネ市民社会の成長

 アテネでは貨幣経済の進展に伴って貴族と平民の抗争が展開され、次第に平民は市民として貴族と平等の権利を獲得し、前508年には民会を中心とするアテネ民主政が確立した。特にペルシア戦争で平民が重装歩兵として活躍し、さらに下層民が三段櫂船の漕ぎ手として勝利に貢献したことを受け、下層市民の発言力が強まり、貴族・平民・下層民の差が無くなって平等な市民社会が実現した。
アテネの市民権法 アテネではペリクレス時代の前451年には市民権法が制定され、両親ともアテネ市民であることが条件とされた。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書、橋場弦『丘のうえの民主政』1997 東大出版会 などによる>

現代の市民社会との違い

 ポリスは、主体的な市民によって民主政治が完成しが、在留外人(メトイコイ)は自由人であるが市民権は与えられず、また生産は奴隷に依存する奴隷制度の社会であった。またポリス市民といった場合、それは男性をさすのであり、女性は市民権を持たなかった。

アテネの市民社会

 代表的な古代ギリシアのポリスであるアテネの市民社会を概観するにはつぎの説明が判りやすいと思われる。
(引用)ギリシアの都市では住民の定期的な戸口調査はおこなわれていなかったから、人口研究は、史書にのこる全軍の出動数とか穀物生産額、輸入額からの推理とかによるほかなく困難をきわめるが、この時代のアテネ市民(18歳以上の男子)は3万から4万くらい、その家族をあわせて15万くらいだったろう。市民ではないが自由人である在留外人の数はとらえにくいが、デロス同盟の資金のあつまるこの市(アテネ)に特別大勢あつまったことはあきらかである。・・・<村川堅太郎・長谷川博隆ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.97-98>
(引用)そして商工業では在留外人の役割が大きく、富裕市民は海上貿易への貸付とか、貢納奴隷の所収とかを好み、エルガステーリオン(奴隷労働による仕事場)の所有者でも直接の経営には当たらず、金利生活者の色彩が強かった。自給自足したうえ余剰生産物を売って換金する土地所有者が典型的な市民であり、ひとりの奴隷ももてず勤労を余儀なくされた大衆は、民主主義の仕組みにより、国家の力で楽しみ、いつかは土地、奴隷所有の階層には入れることを夢見た。<村川堅太郎・長谷川博隆ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.99>

市民の公共奉仕

 ポリスの財政支出は、経済的に余裕のある富裕な市民が負担し仲間の市民に奉仕する、という共同体的性格があった。それを示すのがアテネの公共奉仕(レイトゥルギア)の制度であり、それは三段櫂船奉仕や合唱隊奉仕などの多種があり、富裕市民の中から毎年指名され、それぞれを負担した。公共奉仕を負担することは市民にとって名誉なこととされ、アテネ全盛期には富裕市民が進んで応じていたが、ペロポネソス戦争後の前4世紀には、公共奉仕を重圧と感じられるようになり、忌避する傾向が出てきた。<桜井万里子『古代ギリシアの女たち』1992 中公新書 p.234>
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書籍案内

太田秀通
『スパルタとアテネ』
1970 岩波新書

橋場弦
『民主主義の実験
―古代アテネの実験』
2016 講談社学術文庫

村川堅太郎・長谷川博隆ほか
『ギリシア・ローマの盛衰』
1993 講談社学術文庫

1967年に『古典古代の市民たち』(文芸春秋「大世界史2」)として刊行され、1993に講談社学術文庫に現書名で加えられた。


桜井万里子
『古代ギリシアの女たち』
1992 中公新書