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三段櫂船

ペルシア戦争のサラミス海戦などで、無産市民が漕ぎ手となり活躍したギリシアの軍船。その後、ローマ時代まで地中海の軍船の多くは三段櫂船だった。

三段櫂船
三段櫂船のレリーフ
 ギリシアの三段櫂船(さんだんかいせん、トリエーレス。または三段橈船、三層櫂船とも)は、地中海で広く見られた戦闘用ガレー船の一形態で、乗員200名中180人までが三段に設営された板に腰かけて、合図に合わせていっせいに櫂(かい)を漕いだ。ギリシアのアテネでは、陸上における重装歩兵・密集部隊とともに、海上の戦闘の基本的な装備とされて発達した。
 アテネの三段櫂船は、最高で時速18kmは出たという。船首には青銅製の「衝角」をつけ、敵船に体当たりして船体を破壊する戦術が採られた。衝角は先端にひれがついており、敵艦に刺さったら抜けなくならないように工夫されている。サラミスの海戦などで活躍したギリシアの三段櫂船の船体そのものが海底から見つかることはないが、青銅製の衝角はいくつか発見されており、ギリシア時代の造船技術の高さを端的に示している。<ランドール・スズキ『沈没船が教える世界史』2010 メディアファクトリー新書 p.114> → ローマ時代のガレー船

漕ぎ手の無産市民が活躍

 漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民つまり無産市民でもなることができ、戦争に参加して勝利を国にもたらす上で大きな働きをした。特に、ペルシア戦争サラミスの海戦での勝利は三段櫂船の活躍があって可能だった。これ以後、三段櫂船の漕ぎ手として活躍した無産市民の発言力が強まり、アテネ民主政が徹底されることとなり、その全盛期を迎える。 → アテネ民主政

三段櫂船奉仕

 アテネの市民には参政権などの権利の代わりに、さまざまな公共事業を負担する公共奉仕が義務づけられていた。その一つが三段櫂船を艤装(出航に必要な資材をそろえること)する費用や乗員の漕ぎ手への手当を負担することを三段櫂船奉仕(トリエラルキア)といった。この三段櫂船奉仕者(トリエラルコス)は船員徴募と航海の指揮も行い、アテネ市民にとって名誉なこととされていたが、それは多額な出費となるので最富裕層でなければできないことであった。前370年代と前360年代に活躍したディオクレスという富裕市民は、3度も公共奉仕をした記録が残されており、前377年に単独でデルフィニアという名のついた三段櫂船を艤装する奉仕を担当している。<桜井万里子『古代ギリシアの女たち』1992 中公新書 p.149,233>

三段櫂船の戦法

 三段櫂船はギリシア語ではトリエーレス trieres 船という。帆はついているが主要な推進力ではなく、通常は戦闘の前に浜に残しておいた。トリエーレス船は船首に衝角を備えたガリー船で、三列になって坐る170人の漕ぎ手によって漕がれた。熟練した操縦技術を駆使して敵船に体当たりして穴を開けて航行不能にするか、衝角と衝角をぶつけ合ってつなぎ止め敵船に乗り込むかのいずれかで闘った。文献史料に初めて現れるのは前6世紀中頃で、その頃から前4世紀末までトリエーレス船は地中海における標準的な軍船であった。それ以後は、敵船に横付けして襲撃する戦法専用の、より重量のある軍船が主流となった。
 ポエニ戦争の時代のローマとカルタゴの艦隊は五段櫂船=ペンテーレス船を中心に編制された。内乱の1世紀の時代にはより大型化したが、元首政期には実質的な海上の脅威は存在しなかったので、軍船は小型化した。トリエーレス船が実際に使用されたのは324年のローマの内乱の時で、5世紀までにはトリエーレス船を建造する技術は忘れ去られてしまった。6世紀のビザンツ帝国では大規模な海軍の建造が再開されたが、その頃には古代ガリー船とは異なる設計となった。
 古代の軍船の欠点の一つは、荷物積載のためのスペースがなかったことである。そのため、昼には水を補給し乗組員が食事をとるために、夜は海岸で睡眠を取るために着岸する必要があった。そのため帆船と異なり長期にわたって陸から離れて航行することはできなかった。
 軍船はまた建造と維持に莫大な資材を必要とし、航行には漕ぎ手とその給与、食糧が必要であったので極めて高くついた。ペロポネソス戦争ではアテネはシチリアへの遠征に大船隊を失い、財政的努力の限りをつくして再建したが、それも前405年の海戦で敗れたため、船隊を再建する力はなくなり、戦争は敗北に終わった(スパルタはペルシア帝国から財政支援を受けて持ちこたえた)。アテネでは船隊を維持するため、「名誉船長」制度を考案した。これはトリエーレス船の維持費を富裕な市民に支払わせる一種の課税であり、初めは国が前払いで費用の半分を出し、残りを名誉船長が負担することになっていたが、名誉船長はみずから搭乗して参戦するのが建前だったので、自腹を切って腕の優れた乗組員を傭うようになり、国は費用を出さなくなった。ペロポネソス戦争の時期には名誉船長を務めるのは二人で分かち合うようになったが、前350年代はアテネの最富裕層1200人が20の団体を組織してその任務を全費用を負担するようになった。<サイドボトム/澤田典子訳『ギリシャ・ローマの戦争』2006 岩波書店 p.126-131>

NewS 三段櫂船オリンピアス号、試運航海

オリンピア号

オリンピア号 2016/4
GreeceJapan.com

 アテネ市郊外の海岸沿いパレオ・ファリロのフリスボスで2016年4月19日(火)復元された古代の軍船である三段櫂船(さんだんかいせん)のオリンピアス号が、修復作業の完了後行われた試験航海を成功させた。
 全長36.9m、全幅5.5m、全喫水1.25m、35トンの大きさを持つオリンピアス号の170名の船員はいずれもギリシャ海軍の士官・下士官候補生ら。
 現代によみがえったこの古代の三段櫂船・オリンピアス号の建造は1985年5月に始まり、2年後の1987年7月に完成したもので、2004年8月のアテネオリンピックでは聖火をピレウスに運ぶ大役を務めた。ギリシャ海軍では将来、ギリシャの海運の歴史をより深く理解するため、一般市民を船員とした航海が予定されている。
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ハリー・サイドボトム
『ギリシャ・ローマの戦争』
1冊でわかるシリーズ
2006 岩波書店