陶片追放/オストラシズム/オストラキスモス
古代ギリシアのアテネで行われた僭主の出現を防止する制度。オストラコン(陶片)を用いた投票制度なのでオストラシズム(オストラキスモス)とも言う。アテネで前5世紀前半に実施された。
僭主の出現を防止

オストラシズムで用いられた陶片
クレイステネスの改革の一環
アリストテレスの『アテナイ人の国制』では、「クレイステネスは大衆を狙って他の新たな法を設け」たとして、その一つとしてオストラキスモスを挙げているが、その実施はクレイステネスがアルコンに就任した前508年よりずっと後、ペルシア戦争での「マラトンの戦いに勝ち、勝利の後2年を置いてすでに民衆が自信を得ていたとき(前488/7年)、ここに至ってはじめてオストラキスモスに関する法を用いた」としている。そこでこの制度の制定をクレイステネス時代より後とする説もあるが、訳者の村川健太郎氏の註によると、現在ではその制定は他のクレイステネスの改革と同じく前508年とするのが定説となっているとのこと。アリストテレスの同書には、はじめてオストラキスモスが実施されて追放されたのは前488/7年、ペイシストラトスの親族の一人ヒッパルコス(子ではない)だとしており、その他メガクレス、クサンティッポス(ペリクレスの父)などの名も挙げている。村川氏の註によると、オストラキスモスは前480年代が最も盛んに行われたが、次第に僭主政の防止というより政争の手段として悪用されるようになり、前417年を最後に実施されなくなった。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.46-48 註p.183,229>
Episode プルタルコスの伝える陶片追放
プルタルコス『英雄伝』(『対比列伝』)のアルキビアデス伝には、陶片追放についての記載がある。アルキビアデスはアテネの将軍の一人でマラトンの戦いでも活躍したが、テミストクレスと対立し、その一派の運動によって陶片追放にかけられて一時アテネを追放された。後に許されて復帰し、プラタイアの戦いでギリシアを勝利に導いた人物。(引用)この陶片追放の制度だが、ざっといって、つぎのようなものであった。まず町衆のひとりびとりがオストラコンとよばれる陶器のかけらに追放しようと思う町のものの名まえを書き込む。そして、それを広場(アゴラ)にある手すりでまわりをかこんだ投票の場所にもっていって投げ込む。それがすむと、アルコンたちが、はじめに投票総数をかぞえる。このばあい、もし投票者があわせて六千人に達しなければ無効になる。つぎに陶片に書かれた名まえをべつべつにえりわけ、そのなかでもっとも多く票を投ぜられたものが十年間の追放に処せられる。ただし、その財産の用益権はみとめられた。
さてアテナイの人々がアリスティデスを追放しようとして、陶片に名まえを書いていると、あきめくらで田舎者まるだしの男がアリスティデスをただの行きずりの人と思いこんで、陶片をわたし、”ひとつ、これにアリスティデスと書いてくれんかの”と頼んだという。これにはアリスティデスもびっくりして、”アリスティデスは、あんたに、なにかひどいことでもやったのかね”とたずねると、”いや、なんにもありゃしねえ。でえいち、おらあ、そんな男知りもしねえだが、ただ、どっこさいってもよ、『正義の人』『正義の人』って聞くもんでさあ、腹が立ってなんねいだからよ”と言った。これを聞いてアリスティデスは一言もこたえず陶片に自分の名を書くと、そのまま男にもどしたそうだ。<『プルタルコス英雄伝』上 安藤弘訳 ちくま学芸文庫 p.214>