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ペロポネソス同盟

スパルタがペロポネソス半島内の諸ポリスとの間に結んだ攻守同盟。前6世紀に軍国主義体制を確立したスパルタによって結成され、前5世紀末のペロポネソス戦争ではアテネを盟主とするデロス同盟と戦った。

ペロポネソス戦争

 古代ギリシアの代表的ポリスであるスパルタは、前6世紀までに軍国主義を確立させ、強大な陸軍を主体とした市民戦士団を編成し、ペロポネソス半島のポリスとの抗争を優位に進めて攻守同盟を締結した。その同盟をペロポネソス同盟という。
 スパルタはペロポネソス同盟を背景にギリシアで最も強大となり、アッティカ地方のアテネと競い、特にペルシア戦争後の前478年にアテネがデロス同盟を結成すると対立を深め、前431年~前404年の間、ペロポネソス戦争を戦った。スパルタはこの戦争で勝利を占め、ギリシアの覇権を握ったが、長期化した戦乱により次第に国力を消耗し、前395~387のコリント戦争ではアテネ、テーベ、コリントなどのポリス連合軍に敗れ、さらに前371年にはテーベでスパルタとペロポネソス同盟軍は敗れ、スパルタの覇権も消滅した。

ペロポネソス同盟の成立

 ペロポネソス同盟はスパルタの軍国主義体制が確立する過程で、前6世紀に成立した。ペルシア戦争後のアテネのデロス同盟結成に対抗して結成されたのではなく、それ以前にすでに存在している。
(引用)スパルタは、国内の体制を固める一方、アルゴスやアルカディアといったペロポネソス半島内の対抗勢力と争い、前6世紀半ばまでに、これら外敵の脅威を除去することに成功する。スパルタの半島内部での地位はここに定まった。以後のスパルタは、強力な軍事力を背景に、半島北部のアカイア地方と仇敵アルゴスとをのぞくペロポネソス諸市をさそって、つぎつぎと攻守同盟を結び(ペロポネソス同盟)、前6世紀末には同盟体制を完成してギリシア第一の強国としての勢威を確立する。その勢力は半島内にとどまらず、つぎの世紀には、ギリシア全体の動向を左右するにいたるのである。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』2004 講談社学術文庫 p.158-159>

アテネのデロス同盟結成

 ペルシア戦争ではアテネとスパルタの協調関係がその勝利の原動力とり、前479年のプラタイアの戦いでペルシア軍を撃退することに成功した。しかし、その勝利の後から、両ポリスの関係は次第に冷却化した。 特にプラタイアの勝利の立役者であったスパルタの将軍パウサニアスが、スパルタ内部の政争によってペルシアとの内通が疑われて失脚した後は、対ペルシア戦略の主導権はアテネに移り、デロス同盟の結成へと動く(前478年。前477年ともいわれる)。ペルシア帝国の再襲来の恐れが続く中、エーゲ海域の防衛はアテネの海軍力に依存する度合いが強まり、アテネはギリシア本土だけでなく広くエーゲ海域の諸ポリスと攻守同盟を結んでいった。同盟の本部はアポロン神殿のあるデロス島に置かれたが、その主導権はアテネが握っており、アテネを中心とした軍事同盟という性格が強かった。

アテネのペリクレス時代

 デロス同盟が結成された結果、アテネはペロポネソス同盟に拠るスパルタと対等の位置に立つことになった。この間、アテネではテミストクレスが失脚し、一時は親スパルタ派のキモンが貴族政権が生まれたが、民主派のペリクレスが前462年にクーデタで実権を握り、同時に、アテネの対外政策もスパルタとの協調路線から対決路線に転換し、前461年にキモンを追放したことから両国の関係はさらに悪化した。
 ペリクレスはアテネ民主政への改革を進めながら、前454年にデロス同盟の金庫をアテネに移し、加盟諸都市に対してアテネの守護女神アテナへの貢納を強制した。またデロス同盟領域内で市民的自由を享受できるのはアテネ市民だけとされ、他の市民は外国人としてしか扱われなくなるなど、デロス同盟は「アテネ帝国」といわれるような実態となった。このペリクレス時代はアテネ民主政の頂点にあり、またパルテノン神殿に象徴されるギリシア文明の最盛期であった。

ペロポネソス戦争

 翌前431年、スパルタ王アルキダモスの率いるペロポネソス同盟軍がアッティカ地方に侵入したことによってペロポネソス戦争に突入、戦火はペロポネソス同盟とデロス同盟双方の加盟国を巻き込み、ギリシア本土とエーゲ海域、さらにシチリアにまで及び、二十七年間にわたって続いた。この戦争の経緯はトゥキディデスの『戦史』に詳細に述べられている。
 開戦の翌年、アテネに疫病が流行し、さらにペリクレス自身が死去するなどアテネに不利な状況が続いた。前421年には一旦講和となった(ニキアスの平和)が、アテネで政権を握ったアルキビアデスは戦争を再開させ無謀なシチリア島遠征をおこなった。しかしスパルタはペルシア帝国の資金援助を受けて海軍を強化し、ついに前404年、アテネ海軍は全面降伏して戦争は終わった。アテネの敗北によってデロス同盟は解体した。

同盟の解体

 スパルタはペロポネソス戦争に勝利し、ギリシアの覇権を握ったが、ペロポネソス同盟はすでに戦争開始前の前435年に、同盟内のコリントとの対立が始まっており、結束は緩んでいた。ペロポネソス戦争後の前395年には、スパルタに対してアテネと同盟したコリントテーベの三国が戦うというコリント戦争がおこり、前386年、ペルシア帝国の介入(大王の和約)によって終結した。ついでテーベが台頭してスパルタの統制に反発し、前371年、レウクトラの戦いでスパルタ軍を破り、独立を達成した。こうしてスパルタの覇権は終わりを告げ、ペロポネソス同盟も前366年に解体された。
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伊藤貞夫
『古代ギリシアの歴史』
2004 講談社学術文庫