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ウェスパシアヌス

1世紀のローマ帝国でネロに次いで皇帝となり、帝国を再建。ローマのコロッセウムの建造に着手した。

 ローマ帝国ネロが悪政を行い、自殺に追い込まれたあと、68~69年にローマ皇帝を名のるものが相次いで4人も現れるという混乱が起きたが、その最後に軍団兵士の推薦を受け、69年に元老院の承認を受けて皇帝となった。在位69~79年。皇帝となったとき既に60歳であった。ウェスパシアヌスは騎士階級の出身で、軍人として各地を転戦し、特に前66年にはパレスチナにおけるユダヤ人の反乱、いわゆるユダヤ戦争を鎮圧して名声を高めた。
 ネロが自殺し、カエサルおよびアウグストゥスの血をひくユリウス=クラウディウス朝が断絶、ウェスパシアヌスと次に順次帝位についたティトウスとドミティアヌスの三代を、その出身氏族名からフラウィウス朝という。

ユダヤ戦争とウィスパシアヌス

 皇帝ネロの統治下のローマ帝国の属州ユダヤエで、独自の民族宗教であるユダヤ教の信仰を続けていたユダヤ人は、ローマの支配に対する不満をつのらせて66年に反乱、ユダヤ戦争が始まった。反乱は鎮圧に向かったシリア総督の軍を破り、ユダヤからガリラヤ地方に拡がった。皇帝ネロは、急遽、それまでに戦闘経験を豊かに積んでいた司令官ウェスパシアヌスを派遣し、鎮圧に当たらせた。ウェスパシアヌスは3個軍団と補助部隊を指揮し、67年にはガリラヤ地方を奪回、イェリコなどを占領し、イェルサレムに迫った。
(引用)まさに最終的な攻撃の準備をととのえているさなか、ウェスパシアヌスはネロが失脚したという知らせを受けた。ローマの情勢が定かでないため、軍事作戦の大半は中断された。そして69年7月にウェスパシアヌスは東方に駐留する軍隊の支持を受けて皇帝に宣せられ、数ヶ月後にはアレクサンドリアを経由してローマをめざすことになり、ユダヤ戦争の遂行を息子のティトゥスにゆだねた。70年9月に、ティトゥスは7ヶ月にわたる攻囲戦を経てイェルサレムを陥落させた。<クリス・スカー/吉村忠典監修/矢羽野薫訳『ローマ帝国-地図で読む世界の歴史』1998 河出書房新社 p.56>

コロッセウムの建設

 皇帝ウェスパシアヌスの最大の課題は、ネロ帝の時に破綻した財政再建と大火後のローマの再建であった。そのために莫大な財源が必要なので、彼はさまざまな間接税を設け、戸口調査を行い、緊縮財政を実施した。しかし、市民の“パンと見世物”の要求に応えることも、ムチに対するアメとして必要であったので、ローマに剣闘士競技のための大競技場を建設することにした。実はそれまでローマには大規模な競技場はなく、戦車競技用の横長のトラックなどで代用していたので、これが本格的な円形競技場の最初であった。これが現存するローマのコロッセウムであり、大規模な工事となったため、完成したのは次のティトウス帝の時であった。この建築はローマのシンボルとして、現在に伝えられている。

ウェスパシアヌスの小便税

 ネロのときに破綻したローマの財政を建てなおすため、皇帝ウェスパシアヌスは増税策としてさまざまな間接税を編み出した。特に属州の貢税率を上げようと工夫したので、属州民は皇帝を泥棒呼ばわりしたという。
(引用)彼の伝統にとらわれることのない斬新な発想は、小便税とでも訳すべき間接税に如実に表れている。現代で言えば洗濯屋兼染め物屋に相当する縮絨(しゅくじゅう)業者は、公衆便所にたまる尿を毛織物染色および洗濯に無料で活用していた。その尿に税を課したので、ウェスパシアヌスは、市民にとって絶好の嘲笑の的になった。(ある人が体裁を考えるよう意見を言うと)ウェスパシアヌスは最初に徴収した税の中から貨幣を取り出して「臭いかね」と訊ねたという。<青柳正規『皇帝たちの都ローマ』1992 中公新書 p.256>