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不可触民

インドのカースト社会で差別された最下層民。パーリヤ。ガンディーはハリジャンと呼んでその解放を呼びかけた。

 インドのカースト制社会の宗教的支配者階級であったバラモンは、清浄と不浄(穢れ)という基準で社会集団を差別化し、自らの宗教的な権威を維持しようとした。農業社会の発展とともに隷属民とされていたシュードラが農民・牧畜に従事するようになると、その下に別に差別の対象として、社会の最下層で雑役や清掃、皮革製造などにあたる人々を不可触民として扱うようになった。彼らはパーリヤと言われ、触れてはいけない人々(untouchable)とされた。後にはカースト外の民、という意味でアウトカーストとも言われた。かれらの中も多くの身分差があり、互いに差別しあう関係にあった。

不可触民はなぜ生まれたか

 前6世紀ごろからインダス川中流域の都市経済が発展するという社会的変動のなかで、ヴァルナ制では生産民とされていたヴァイシャの活動が主として商業へと傾いていった。そのため、農業や牧畜、手工業と言った肉体労働、つまり生産活動を担う階層が、第4階級のシュードラに移行していった。そうなるとシュードラのなかでヴァイシャに近づき得たものと、そうでないものの格差が広がり、より下層のものはヒンドゥー教で不浄とされた死、血、排泄などにかかわる職業(例えば動物の屠殺や皮革加工、清掃、選択などの雑役)の専業とされ、上位カーストから「触るのも汚らわしい(アチュート)」としてカーストから除外されるようになった。このような人々によって不可触民が形成されることによって、下位カーストであったシュードラは生産を担う庶民層として遇されるようになった。<森本達雄『ヒンドゥー教 -インドの聖と俗』2003 中公新書 p.142>

不可触民差別に対する批判

 不可触民の存在は、カースト制度の定着とともにインド社会に固定化されたが、15世紀末から16世紀初めの宗教指導者カビールやその影響を受けシク教を創始したナーナクらは不可触民への差別を厳しく非難し、カーストにとらわれない人間の平等を説く人々も現れた。

ガンディーのハリジャン運動

 インド独立を指導したガンディーは、ヒンドゥー教の熱心な信者であり『バガヴァッド=ギーター』などに示された不殺生(アヒンサー)の思想をもとにして、サティヤーグラハ運動を開始した。その思想ではカースト制度とカースト外の不可触民に対する差別は、本来のヒンドゥーの教えから言っても間違えているとして、反対を表明した。カーストそのものに対してはインド社会に根付いているものとして寛容な面もあったが、不可触民に対しては彼らを「神の子」(ハリジャン)とよんでその解放を呼びかけた。特に1930年代の第2次の運動の時期には、イギリス当局が不可触民に州議会選挙の別枠を与えるという分離選挙を導入しようとしたことに対して、それが差別を固定化することであるとして激しく反発し、全国を遊説してハリジャンの解放を訴えた。 → アンベードカルとの論争

現在の差別問題

 インドの分離独立後の1950年に制定された現在のインド憲法では不可触民は否定されている。しかし、現在でもインド社会では「アウトカースト」と言われる人たちが存在し、自らをダリット(またはダリト)と称しており、有形無形の差別が続いている。制度や政策の面では、彼らに対する議席での留保、就職、教育、奨学金、補助金などでの優遇策(アファーマティヴ=アクション)が実施されて、差別解消の方策が採られているが問題は継続している。

Episode インドの経済成長と「神の子」

 現代のインドでも、不可触民はダリットと言われて厳しい差別の現実があること、インドの経済の高度成長のなかで彼らのなかで起業家として成功したものもいることを、朝日新聞(2010年4月26日~30日「神の子たちの経済成長」)で伝えている。その一部を引用しておこう。
(引用)インドの商都ムンバイ(ボンベイ)。100年の歴史を持つビジネス街「バラード・エステート」には、インドを代表する財閥企業の本社が立ち並ぶ。カースト制度=キーワード=の最底辺の階層ダリット出身の女性カルパナ・サロジさん(52)は、この一角の名門非鉄金属会社カマニ・チューブの再建をまかされ、2006年から議長をつとめる。カルパナさんは12歳で七つ年上のダリットと結婚させられ、ムンバイのスラムに住んだ。暴力をふるう夫に耐えかねて1年で村に戻ったが、家族から逆に責められた。殺虫剤のボトルを3本飲んだ。意識が戻ったとき、待っていたのは家族の非情な言葉だった。「死んでくれた方が家族の名誉だったってね。あのとき、私はカーストの絆(きずな)を離れ、一人で生き抜こうと決意しました」ムンバイに戻り、靴下工場で懸命に働いた。30代半ば、わずかな貯金と国営銀行が起業家を育成しようと始めた無担保融資で家具店を始めた。転機は、不動産業への転身だった。1996年に50万ルピー(約100万円)で買った土地が10倍にはねあがった。01年に住宅ビルとして売り出したら4500万ルピー(約9千万円)の値がついた。床掃除や汚物処理を職業とするダリットが不動産業を始めたことへの反発は大きかった。同業者は上位カーストのクシャトリアが多く「ダリットに土地を売るな」と申し合わせていた。ナイフを持つ暴漢に襲われたこともあった。だが、ひるまなかった。多くは語らないが、政治家との間で築いたコネが、力を発揮した。「死ぬ覚悟さえあれば、何でもできるわ」カマニ社の再建は、手腕を聞きつけた経営陣が直々に頼み込んできた。その行方に経済界の注目が集まる。<朝日新聞 2010.4.26 「神の子たちの経済成長」第1回(高野弦)>
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森本達雄
『ヒンドゥー教』