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マウリヤ朝

インドのマガダ国の王朝で、前4世紀の末に成立したインダス川流域からガンジス川流域に及ぶ初めての統一国家。前3世紀のアショカ王の最盛期に仏教を保護した。前180年に滅亡し、インドは分裂期に入る。

マウリヤ朝地図

マウリヤ朝の領域と仏教遺跡
磨崖仏  石柱碑 ●重要地名

a=パータリプトラ b=ブッダガヤ c=カピラヴァストゥ d=クシナガラ e=サールナート f=サーンチー

 古代のインドガンジス川流域にあった都市国家の一つであるマガダ国ではナンダ朝の王統が続いていたが、前317年チャンドラグプタ王がナンダ朝を倒してマウリヤ朝を建てた。さらにチャンドラグプタは、アレクサンドロスの侵入によって混乱した西北インドを征服し、インダス川流域からギリシア人勢力を一掃してその支配領域を拡大し、はじめてガンジス川流域からインダス川流域に及ぶ大国(南端部は除く)を建設した。都はガンジス川中流域のパータリプトラに置かれた。マウルヤ朝とも表記する。
・POINT  都パータリプトラの位置に注意。ハラッパーなどいわゆるインダス文明ではなく、ガンジス川中流域に移っている。次のクシャーナ朝はインダス流域北部のパンジャーブ地方、プルシャプラに都を置いた。<センターテスト 2018年世界史B第2問の2>

マウリヤ朝の統治

 マウリヤ朝はほぼインド全域を支配したが、その統治は中央集権的であり、ガンジス川流域の直轄地に加えて、征服地を4つの属州に分けて統治した。属州にはマウリヤ朝の王子を太守として派遣した。中央政府は大臣や軍司令官の元に多くの官僚・軍人が組織され、租税制度も整備されていた。これらの統治機構はチャンドラグプタを補佐したカウティリヤ(『実利論』の著者で政治思想家としても知られる)の寄与が大きかった。その著作『実利論』は、マウリヤ朝の政治を知る手がかりともなっている。
 中央政府には王を支える顧問官と祭官がおり、大臣・軍司令官の下に膨大な数の官僚がいた。地方統治では徴税、土地測量、水利施設管理などにあたる多数の官吏が存在した。軍事組織は歩兵、騎兵、戦車、象軍の四部隊からなり、全盛期のアショーカ王は東部のカリンガ地方を平定するため遠征軍を送った。

マウリヤ朝の社会

 マウリヤ朝では後期ヴェーダ時代以降のバラモン教の理念に従い、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4つのヴァルナ(身分)が維持され、王権はその秩序の上に成り立っていた。アショーカ王はその秩序の上に、さらに独自のダルマ(法)の政治を実践しようとした。
4ヴァルナ制 マウリヤ朝時代の社会を現在に伝える資料として、セレウコス朝からパータリプトラのチャンドラグプタの宮殿に使者として派遣されたギリシア人メガステネースの残した記録『インド誌』がある。それによると、インドの社会には、哲学者、耕作者など、七種の内婚集団(内部のみで結婚できる集団)が存在するとしており、4ヴァルナといくつかの職能集団が混じって挙げられている。バラモンとクシャトリヤの関係については、バラモン教文献ではバラモンを上位に記し、マガダ地方の王族の保護を受けた仏教の文献ではクシャトリヤを上位とするなど、まだ流動性が見られる。しかし、ヴァルナ制はマウリヤ朝期を通じて維持され、上位の3ヴァルナ(再生族と言われる)の間には四住期の観念もひろまっていった。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.42>

マウリヤ朝と仏教

 前3世紀の第3代アショーカ王の時代が全盛期で、王の保護によって仏教が栄えた。アショーカ王はデカン南部のカリンガ国を征服したときに、多くの犠牲者を出したことを悔い、仏教に帰依したという。王は前258年にダルマ(仏法)に従った政治を行うことを宣言し、各地に石柱碑と磨崖碑をつくって民衆を教化した。また仏典結集スリランカへの仏教布教を行った。

仏教遺跡の分布

 右上の図はアショーカ王時代マウリヤ朝の支配領域と仏教関係の遺跡の分布を示している。
は磨崖仏、は石柱碑の分布。●は、 a=パータリプトラ(マウリヤ朝の都) b=ブッダガヤ(シャカが悟りをひらいたところ) c=カピラヴァストゥ(シャカの生誕地) d=クシナガラ(シャカの入滅地) e=サールナート(シャカが最初に説法したところ) f=サーンチー(ストゥーパのあるところ) → ガウタマ=シッダールタ(ブッダ)

マウリヤ朝の衰退

 アショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退し前180年に滅亡した。その衰退の理由は、アショーカ王に続く世襲の王たちに人物がいなかったこと、官僚機構や軍隊が強大になりすぎ、財政が破綻したこと、地方勢力の離反が相次いだことなどが考えられる。また仏教やジャイナ教を保護したマウリヤ朝に対して、旧来の支配層であったバラモンたちの反発も大きかったと思われる。

インドの分裂期

 その後、前2世紀~紀元後3世紀ごろまでは、インドは長い分裂の時期となった。インドは小国に分裂したが、特に北西インドにはギリシア系やイラン系の国々が興亡した。インド北西部はギリシア系のバクトリアが進出し、その王メナンドロスのころ、一時栄えた。このころ、インドにギリシア文明を源流とするヘレニズムが及んできた。
 さらに、後1世紀頃バクトリア地方のイラン系大月氏国から起こったクシャーナ朝がインドに進出してきたが、その支配は南インドに及ぶことはなかったのでインド全土を統一したとは言えない。
 デカン高原にはサータヴァーハナ朝がインド洋交易で栄えていた。さらに南インドには、半島南端部にチョーラ、バーンディア、チェーラ(ケーララ)などの王国が存在した。インダス川流域からガンジス川流域、さらにデカン地方もふくめたインドの統一王朝が再び現れるのは320年のグプタ朝を待たなければならない。