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ラーマーヤナ

グプタ朝のサンスクリット文学の最高傑作である叙事詩。

 『マハーバーラタ』とならぶインドの二大叙事詩の一つとされる。紀元前数世紀からの古い口から口に伝えられた伝承を、詩人ヴァールミーキが編纂したと伝えられ、その後もさまざまな話が加えられ、2世紀ごろには現在のような内容となり、4世紀のグプタ朝時代に完成したと考えられている。後期ヴェーダ時代のコーサラ国の都アヨーディヤの王子ラーマの運命を描いた英雄物語で、ラーマはヒンドゥー教の最高神の一つヴィシュヌ神の化身とされる。またラーマの妻のシーターやラーマを助ける猿のハヌマーンも民間で崇拝されている。

ラーマーヤナの物語

 北インドのコーサラ国の王子ラーマは、王位継承者の地位を追われて、妃シーターと弟ラクシュマナとともに都を去ったが、魔王ラーヴィナはシーターをさらってランカー(セイロン島)の居城に連れ去った。ラーマはシーター創作の途中、猿の王を助け、その援助によってシーターの所在を確かめ、猿の勇将ハヌマットなどの活躍によって魔軍を破り、シーターを救出して都に凱旋した。

ラーマーヤナの普及

 「ラーマーヤナ」はインドの宗教と文学に大きな影響を与え、インド国内に広く普及した。インドだけでなく、インド文明=ヒンドゥー文明が広がるとともに「ラーマーヤナ」も広がって行き、特に東南アジアの国々では本来の話が翻訳されただけでなく、それらの地方において独自の発達を遂げ、ある場合には大きく変貌した。それは、物語が劇化され、影絵芝居や操り人形劇、あるいは舞踊化することで民衆文化に深く取り入れられ、また文学や演劇にとどまらず、絵画や彫刻などの美術作にも取り入れられた。
 インドネシアのジャワ島では古い時期にラーマーヤナが伝えられ、古代ジャワ語であるカーヴィ語で書かれた「ラーマーヤナ=カーカーウィン」が12世紀ごろに作られ、他にもさまざまなラーマ物語が派生したが次第にイスラーム教の要素も加えられて変質していった。とっくにジャワ島ではラーマ物語をもとにした影絵芝居であるワヤン=クリが盛んである。
 タイにも早くからラーマーヤナが伝えられ、あまり改変は見られず、ラーマをヴィシュヌ神の権化とするヒンドゥー教の思想が残っている。タイの国王がラーマ1世ラーマ4世ラーマ5世など、ラーマの名を冠するのは、ヴィシュヌ神の化身という信仰が残っている証である。
 その他、ベトナム南部(安南)、カンボジア、ラオスでもヒンドゥー教の普及とともにラーマーヤナの物語の場面が建築彫刻として盛んに取り入れられた。東南アジアでの宗教建築のなかで、ラーマーヤナの物語が見られるものには、ジャワ島のプランバナン(9世紀末)、パナタラン(13世紀ごろ)、カンボジアのアンコール=ワットの遺跡などである。<田中於菟弥他『変貌のインド亜大陸』世界の歴史24 1978 講談社 p.9-11>

インドの聖地アヨーディヤーの悲劇

 古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマが都としていた北インドのアヨーディヤで、現代のインドの宗教対立というにからむ悲劇が起こった。1992年12月、ヒンドゥー教過激派(ヒンドゥー=ナショナリズム)に煽動された大群衆が、アヨーディヤーのイスラーム寺院(モスク)を破壊した。このモスクは1528年にムガル帝国初代皇帝のバーブルの部将がラーマをまつるヒンドゥー寺院を壊して建てたものであった。群衆はそこにヒンドゥー寺院を再建しようとしたのだった。このモスク破壊がきっかけとなって、ヒンドゥー・イスラーム両教徒の衝突が全インドで起こり、1200人以上の死者を出すという大事件となった。このアヨーディヤー事件は現代インドの火だねとして今もくすぶっている。 → コミュナリズム
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