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商鞅の変法/什伍の制

前4世紀中頃、中国の戦国時代、秦の孝公の時の商鞅が行った改革。その一つが什伍の制で、地縁原理に基づいた隣保制度を導入するなど、周以来の氏族制社会を解体し、君主が直接人民を掌握する国家体制を目指した。

 前359年戦国時代に、孝公が、商鞅を登用して行った改革を商鞅の変法(またはたんに変法))という。
 その中の最も重要なものが什伍(じゅうご)の制であり、中央の国王が都市と農村の住民を支配するため、。さらにその上に行政区画として郡と県を設けたとされている。これは法家の思想による統治強化策であり、後の北魏の三長制、明の里甲制、日本の江戸時代の五人組などの隣保制度の最初のものである。

商鞅の変法

 商鞅の変法は、次のように行われた。<渡邉義浩『中国はいかにして統一されたか』世界史のリテラシー 2024 NHK出版 p.47-57>によって構成
第1次変法
  • 什伍の制 単婚家族を基準に5家を伍、10家を什とする地縁的な隣保組織をつくり、連帯責任・相互監視の義務を負わせた。
  • 分異の令 同時に一家に二人以上の男子がいれば必ず分家しなければならないとして氏族を分解し、5人を標準とする単婚家族を創出した。
  • 軍功爵制 血統に関わりなく実績の軍功に応じて爵位を与えるという実力主義の爵位制度を始めた。
ねらい  単婚家族(夫婦子供の5人家族)を標準とした5家族(伍)は、徴税の単位であり、徴兵の単位でもあった。その5家族に連帯責任と相互監視義務をあたえ、これによって血縁で結びついた氏族ではなく、他人同士が伍に組織され、官吏の支配を一人一人が受けることになる。
 また血統ではなく軍功によってのみ爵位を与えることにしたことで、支配者層の氏族制的特権を奪い、軍功によって得られる爵位に応じて、田宅(農耕地と宅地)・奴隷・衣服などを受けられるようにした。これらの変法によって、秦は実力主義的な社会に急速に変動し、国家の中で君主だけが直接国民を支配する体制が出来上がった。
 この国力の充実を実現させた秦の孝公は、前350年に新都の咸陽を造営した。同時に、商鞅は同年、第2次変法として次のような事を打ち出した。
第2次変法
  • 県の設置 「県」を行政単位として設置し、官僚を派遣して直接統治を行う。県に派遣される官僚は世襲ではなく一代限りで、君主の代理として赴任する。このような県を31カ所設置した。
  • 阡陌を開く 阡(せん)とは南北の道、伯(はく)とは東西の道のことで、県の域内に道路を作って民を農耕に努めさせる。
  • 度量衡の統一 秦でおこなれている度量衡を一つとする。後に始皇帝が全国を統一したことで、中国全土の度量衡の統一が行われた。
 県の設置の後、さらにその上に郡が設置されることとなり、郡県制へとつながる。度量衡の統一と共に、始皇帝の統一事業に継承される。
参考 高校世界史では「商鞅の変法」の内容まで触れることはほとんどない。あるとすれば「什伍の制」が取り上げられる程度である。用語集では「変法」として出て来るが、もちろん清末の戊戌の変法も「変法」とだけいわれることもあるので注意しよう。