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晋/西晋

265年に魏の帝位の禅譲を受けた司馬炎が建国。280年に呉を滅ぼして中国を統一したが、まもなく一族の内紛から八王の乱が起き、急速に衰退した。華北を五胡に奪われ、311年には匈奴が都洛陽を制圧(永嘉の乱)、さらに316年に長安が匈奴に奪われて滅亡した。ここまでの晋を西晋といい、317年に江南で再建された晋を東晋として区別する。

 の皇帝から実権を奪った司馬懿の孫の司馬炎は、265年に魏の皇帝から禅譲を受ける形で皇帝となった(晋の武帝)。都は洛陽におかれた。武帝は勢いに乗り、280年には江南のを滅ぼし、中国を統一した。
 武帝は、土地公有制の先駆となる占田法課田法を実施し、統一政策を進めた。また、魏の官吏登用法である九品中正制を継承して人材登用を図ったが、その結果地方豪族の家格が固定化し、中央の官僚として門閥貴族化が進んだ。

Episode 貴族のぜいたくくらべ

(引用)(晋の)武帝(司馬炎)が婿の王濟(おうせい)の家に招待されて行くと、出された蒸豚がひじょうにやわらかくておいしい。どうしてこんなによい肉を手にいれたかと聞くと、これは特別に人間の乳で育てた豚だ、と答えた。さすがの武帝もあきれて、いい顔をしなかった。貴族の羊琇(ようしゅう)は酒を醸(かも)すのに、炭火の熱などを用いず、奴隷を使ってかわるがわる酒甕を抱かせ、体温で暖めさせた。はたしてそういう方法でうまい酒ができたかどうかは別問題として、ぜいたくをいばる条件にはなる。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.116>

Episode 貧乏人は肉を食え

 晋の武帝、さらに次の恵帝と続いた司馬氏の天子たちが愚物であったエピソードには事欠かない。次も宮崎市定の本からの情報。
(引用)武帝が酒色にふけったあげく不摂生がたたって55歳でなくなり、32歳の恵帝が即位した。30代といえば分別ざかりの年ごろのはずだが、知能が低く生まれついたのだからしかたがない、イモのにえたも御存じないたぐいであった。おりあしく飢饉が天下をおそい、人民は食物がなくてばたばた倒れた。大臣がその状況を報告して、
「人民は食べる米がなくて困っております」
と申し上げた。すると恵帝にはそれがわからない。不思議そうな顔をして、
「はて馬鹿なやつらだ。米がないなら、なぜ肉を食べぬぞ」
といったとか。日本でも戦時中、2合3勺の米を配給しておいて、不平をいうと、それで栄養はたっぷりあるぞとどなられた。そういうえらい人は、こっそり肉を食っていたから自分の腹はへらぬはずだった。しかし人民に肉を食えとはいわなかった。恵帝のほうが天真爛漫でかえっていい、ともいえる。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.119>
この文が発表されたのは昭和43年。見出しになった「貧乏人は肉を食え」とは、昭和25年に大蔵大臣だった池田勇人が言った「貧乏人は麦を食え」にかけている。

八王の乱

 武帝の死後、290年に長子の恵帝が継いだが暗愚であったので、皇后の賈后とその一族が実権を握り、そのため武帝の兄弟や、武帝の子(恵帝の兄弟)の司馬氏一門に激しい内紛が生じた。この一族の争いは長期化して八王の乱へと発展し、300年ごろから激化し、306年まで続いた。そのため晋は急速に衰退、中国は再び分裂の時代に向かっていく。このとき、八王がそれぞれ兵力として頼ったのが、当時五胡といわれた北方民族であった。

五胡の南下と永嘉の乱

 この八王の乱の際、それぞれの勢力が、兵力として北方民族を導き容れて傭兵としため、次第に彼らが華北に進出する契機となった。北方民族は五胡と言われ、様々な系列を含んでいたが、華北の農耕地帯への進出をそれぞれねらっており、晋の統制が効かなくなるにつれて活動を活発にしていった。
 五胡の一つの南匈奴出身の劉淵は304年にを建国、その弟の劉聡はついに311年、晋の都洛陽に侵入、永嘉の乱となり、晋は実質的に衰えた。さらに劉淵の子の劉曜が316年に長安を陥れ、晋は完全に滅亡した。その後、江南にいた一族の司馬睿が、建業で晋を再建するがそれを東晋とし、それ以前を西晋と言って区別する。

西晋の社会と文化

 西晋の時代は魏の九品中正の制度が継承され、貴族社会の形成が進み、また文化史上では竹林の七賢など清談の流行や、仏教の布教などの重要な転換期であった。
 なお、次の東晋の時代に顧愷之が描いた「女史箴図」は、精神の宮廷での女官生活を題材としている。
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書籍案内

宮崎市定
『大唐帝国―中国の中世』
1968初刊 1988中公文庫

魏晋南北朝の記述が3分の2を占める。史話満載。