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竹林の七賢

3世紀の中国、魏晋のころ、老荘思想の影響を受け清談に明け暮れた七人を言う。七人が同時に活動したわけではないが、魏晋南北朝文化の前期における、新しい思想を生んだ貴族文化を代表する人々として、後世に大きな影響を与え、「七賢人」と称揚された。

 から西晋にかけての3世紀ごろ、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論を展開した阮籍らを竹林の七賢という。 → 魏晋南北朝の文化
 背景には三国時代の魏呉蜀三国の中で最も有力であった魏で、249年に司馬懿がクーデタで実権を握り、ついで司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したという3世紀の王朝交替の混乱があった。貴族の中にそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んで「竹林の七賢」と称された。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜・阮咸(げんかん)・王戎の七人を言うが、七人が同時に集まっていたということではない。彼らの議論は「清談」と言われ、以後の六朝の文化人の理想とされた。なおその中の嵆康は、魏の実力者司馬昭(司馬炎の父)によって死刑になっている。  同時期の3世紀に活動したが、実際に党派を作ったわけではないこの七人をひとまとめにし、「竹林の七賢」としたのは、5世紀中頃編纂された『世説新語』からである。

参考 魯迅の「竹林の七賢」論

 魯迅が1927年に広州で行った講演「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」で、竹林の七賢に言及している。その一節を見てみよう。
(引用)魏の末期には、何晏かあん清談を行った一人)たちのほかに、もうひとつのグループが生まれました。「竹林名士」とよばれ、やはり七人いたので「竹林七賢」とも呼ばれます。正始の名士(何晏たちのこと)は薬を飲みましたが、竹林の名士は酒を飲みました。竹林の代表は嵆康と阮籍であります。といっても竹林の名士は、純粋に酒ばかり飲んでいたのではなく、嵆康は薬のほうも兼ねております。阮籍は、酒専門のほうの代表であります。嵆康も酒は飲みました。劉怜も、このグループの一人です。この七人は、概して古い礼教に反抗した連中でありました。
 七人は、それぞれ性格がちがっていおります。嵆康と阮籍の二人は、非常に我の強い人でした。阮籍は年をとってから大いに改まったのですが、嵆康は、最後まで同じでした。
 阮籍は若いころ、訪ねてくる客に対して青眼と白眼とを使い分けました。白眼というのは、たぶん瞳を見えなくすることでしょう。よほど長いあいだ、練習を積まなければできますまい。青眼なら私にもできますが、白眼は私にはできません。・・・・
 かれらの生活ぶりは、酒を飲むときは服も帽子もたいてい取ってしまうのです。ふたん、こんな風にしていたら、私たちは無作法だと思いますが、かれらはそうではありません。服喪中でも、規則どおりに泣いたりなどしないのです。子は父の名を口にすることができないものですが、竹林名士のあいだでは、子が平気で父の名を呼びます。昔から伝わっている礼教を、竹林名士は承認しなかったのです。たとえば劉怜――ご承知のように『酒徳頌』の作者です――は、昔から世間に通用する道理を承認しませんでした。こんな話が伝わっております。あるとき客が来てみると、かれは服を着ていなかった。それをなじられると、彼はこう答えました。天地はおれの家であり、家はおれの服である。おまえたちは、なんだっておれのズボンのなかへはいってきたんだ。<魯迅/竹内好訳『魯迅評論集』1981 岩波文庫 p.178->
 このほか、竹林名士のおもしろい話が紹介されている。また、何晏が薬を飲んだ元祖だという話は魏晋南北朝の文化を参照。文中の劉怜は外出のときも酒を肌身はなさず、車のあとから来る従者には鍬をかつがせていた。死んだら埋めろ、という言い草なのだ。<同上 p.11> ところで、「竹林七賢」がなぜ酒を飲んだか、魯迅は阮籍を例にとってこう説明する。
(引用)(阮籍は)上下古今さえ承認しなかった。『大人先生伝』のなかに、こう書いております。「天地解けて六合開き、星辰隕(お)ちて日月頽(くず)る。われ騰(のぼ)り上(のぼ)るも、何を懐(おも)わんや」その意味は、天地も神仙もみな無意味だ、一切は不要だ、ということです。だから世の中の道理などとやかく言わなくていい、神仙も信ずるに足りない、とかれは考えた。一切が虚無である。したがって酒に耽溺したのです。じつは、もう一つの理由があります。飲酒は思想だけにもとづくのではなく、より多くは環境にもとづくものであったことです。当時、司馬氏はすでに帝位を奪おうと考えていた。ところが、阮籍は名声が非常に高い。だからうっかり口がきけない。そのため、なるべきしゃべらないようにし、また、たというっかりしたことをしゃべったにしても、酒に酔ってのことだといえば大目に見てもらえるから、それで酒ばかり飲んでいたのであります。あるとき、司馬懿が阮籍と姻戚関係を結ぼうとしたが、なにしろ阮籍は一度酔っぱらえば二月も醒めないので、言い出す機会がなかったそうです。この例だけでも、それがわかります。<同上 p.180>
 嵆康は自著のなかで「湯、武を非とし、周、孔を薄(かろ)んず」という一句を書いて古代の聖王や孔子を非難したため司馬氏に危険視され、友人の不幸罪の巻き添えで死罪になっている。魯迅のこの講演も国民党の厳しい監視の前で行われた。魯迅は魏晋の文学をおもしろく語りながら、言論弾圧に対する厳しい批判を込めていたのだろう。
 魯迅がこの講演を広東で行ったのは1927年4月の蔣介石による中国共産党弾圧事件、上海クーデタの余震がまだ続いていた時だった。浙江省紹興の人、魯迅が話す中国語は広東省広州市では通じなかったので、教え子かつ愛人だった許広平が通訳をした。
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書籍案内

魯迅/竹内好訳
『魯迅評論集』
1981 岩波文庫

劉義慶/井波律子訳注
『世説新語』
2013 東洋文庫
平凡社 全5冊

井波律子
『中国人の機知
――「世説新語」の世界』
2009 講談社学術文庫