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三韓

朝鮮半島の漢民族は、1~4世紀に半島南部に馬韓・弁韓・辰韓の三地域に分かれて小国家を形成していた。

 1~4世紀の朝鮮半島の南部には韓民族が多くの小国家を作って分立していた。それらは、半島南部西側の馬韓、最南端の弁韓、東側の辰韓の三つの地域にわかれ、総称して三韓という。
 朝鮮半島には前108年に漢の武帝楽浪郡以下の四郡を置いて、郡県制の支配を及ぼし、韓民族もその直接、間接の支配を受けていた。さらに3世紀には遼東太守公孫氏によって帯方郡が設けられると、帯方郡は三韓地方、さらに海を隔てた倭をも含んだ東アジアのキーステーションの役割を果たした。 → 楽浪郡・帯方郡・三韓の位置

韓民族の国家形成

 313年に楽浪郡、翌年に帯方郡が、それぞれ北方に急成長した高句麗によって滅ぼされたことで、帯方郡の間接的統治を受けていた韓民族に、自立の動きが強まった。  まず、馬韓の50余国はその中の一つであった百済によって統合され、辰韓の12余国は新羅によって統合された。しかし弁韓の地は加羅などの小国家分立が続き、倭(日本)の大和政権も進出した。4世紀以降の朝鮮は三国時代といわれることになる。 → 三国の位置
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