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孔穎達

中国の隋唐時代の儒学者。唐の太宗のもとで『五経正義』を編纂した。

 くようだつ、または、こうえいたつ、とよむ。孔子の32代の子孫と称する。隋の煬帝の時に科挙の明経科に合格し、唐では国子監の長官となり太宗の信任を得た。

『五経正義』を編纂

 太宗は科挙制度を充実させるにあたり、儒教の経典である五経について、さまざまな解釈がなされ、合格基準があいまいであることから、その一本化をはかり、孔穎達に命じて統一的な解釈書を編纂させた。653年に孔穎達が完成させたのが『五経正義』であり、以後、この書が儒学の国定教科書として科挙の基準とされた。また、『隋書』の編纂にも参画し、当代一の儒学者と言われた。

Episode 孔穎達、皇太子を諫めるも……

 孔穎達は早くから学者として一家を成していたが、唐の太宗の即位とともに右庶子(役職名)に進み、東宮侍講となって太子教育に当たった。左庶子の于志寧(うしねい、太宗の参謀役)とともに天子に対しても厳しく諫言(諫める)ことで知られていた。以下は、太宗の言行録である『貞観政要』からの話。
(引用)貞観年間のこと、(太宗の)太子承乾は太子にあるまじき振る舞いが多く、日ましに、わがまま勝手をつのらせていった。見かねた左庶子の于志寧が『諫苑』二十巻をあらわしてそれとなく諫めた。一方、右庶子の孔穎達は太子の面前でずけずけと諫言を呈するのが常だった。承乾の乳母・遂安夫人が、あるとき孔穎達をつかまえて、
「太子も、もうおとなですよ。そんなにずけずけおっしゃらなくても、おわかりでしょうに」 と、文句をつけたところ、
「わたくしは、陛下の大恩に報いようとしているまでのこと。殺されても悔いはない」
 その後も孔穎達の諫言はますます手きびしくなっていった。承乾の命で『孝経』の注釈をまとめたときも、その中に諫言の意をもり込むなど、あらゆる機会をとらえて太子を諫言し続けた。
 太宗は、二人の諫言をことのほか喜び、それぞれに絹五百匹、黄金一斤を賜った。こうして、承乾が二人の諫言を受け入れるように側面からはげましたのである。<呉競/守屋洋訳『貞観政要』ちくま学芸文庫 p.138>
 孔穎達の教育にもかかわらず、承乾の素行は改まらず、太宗はついに皇太子から外し、代わりに選ばれたのが三男の、真面目なだけで何の取り柄もない、と思われた高宗であった。
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書籍案内

呉競/守屋洋訳編
『貞観政要』
初刊1975 再刊2013
ちくま学芸文庫