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貞観の治/貞観政要

中国の唐王朝の太宗の治世。貞観年間(627~649)、皇帝政治が最も最も良く治まり、唐の全盛期となった。貞観の治と言われた太宗の政治のあり方を伝えるのが『貞観政要』。

 の第2代皇帝として、626年に即位した太宗(李世民、廟号を太宗)は、翌627年、貞観と改元した。それ以後649年に至る太宗の統治を「貞観の治」という。太宗は、隋末の混乱以来残存していた各地の勢力を次々と破って統一を完成し、突厥、西域諸国などを服属させ、唐王朝の基礎を築いた。太宗は、房玄齢や杜如晦などの宰相をブレーンとして、貞観律令の制定など、安定した政治を行ったが、太宗とその臣下の問答を記録した『貞観政要』は、その後の各王朝でも参照され、日本でも平安時代から権力者(源頼朝や徳川家康)によって愛読され、刊行された。この7世紀前半の貞観の治は、8世紀前半の開元の治と並び、唐王朝が安定した時代とされる。

『貞観政要』にみる君主政治

 『貞観政要』は太宗の時代から約50年後の唐の歴史家、呉競(670~749)が編纂した、太宗自身の言行と、宰相たちとの政策上の問答を記録した書物。太宗とその補佐役たちがどのようなことを考えて政治にあたったかを、簡潔な文章で綴っている。上記のように、日本にも伝えられ、頼朝や家康だけで無く為政者にもよく読まれた。しかし、現在の政治家、為政者には全く読まれなくなってしまったようだ。今、読んでみるとけして古くなく、まさに今の政治家にも読んでほしい、あるいは参考にして欲しい内容に満ちている。幸い、守屋洋氏が選んだ原文と読み下し、解説が読みやすくまとめられている(主に経営者向けのものだが)ので、古くさい古典と敬遠せず、ぜひ一読して下さい。<呉競/守屋洋訳編『貞観政要』初刊1975 再刊2013 ちくま学芸文庫>
 全編を貫くテーマは、君主の統治は如何にあるべきか、ということであり、特に創業よりも守成(権力の奪回よりも権力の維持)をどのようにしたらよいかという問題意識だった。非常な手段で権力をにぎった太宗であったが、その権力を維持するために、いかに独善に陥らず、耳の痛い諫言を聞き、広く天下の民衆の生活を忘れず、武力行使をできるだけ避けたか、などなど、太宗の思索の跡を伝えている。また、堂々と太宗に反論し、諫言する房玄齢や魏徴などの宰相たちの言葉も重みがある。理想化された君主と名臣の作り話と一笑に付すことはできない。中国の『君主論』として読むこともできる。とりあえず今の政治に役立ちそうなトピックスをいくつか紹介しておこう。
  • 君たるの道は 貞観の初め、太宗、侍臣に謂いて曰く「君たるの道は必ずすべからく先ず百姓(ひゃくせい、民衆)を存すべし。もし百姓を損じてもってその身に奉ずれば、なお脛(はぎ)を割きてもって腹に啖(くら)わすがことし。腹飽きて身斃(たお)る。もし天下を安んぜんとせば、必ずすべからく先ずその身を正すべし。いまだ身正しくして影曲がり、上理(おさ)まりて下乱るる者はおらず。・・・」<人民を搾取するのは、自分の股の肉を切り取って食べるようなものだ p.33>
  • 明君と暗君の違い 貞観二年、太宗、魏徴(宰相)に問いて曰く「何をか謂いて明君、暗君となす」。魏徴曰く「君の明らかなる所以の者は、兼聴すればなり。その暗き所以の者は、偏信すればなり。・・・」<明君とは人の言うことを良く聞くことであり、暗君とはお気に入りの臣下のことばだけしか信じないことです。 p.37>
  • 知りて寝默するなかれ 貞観三年、太宗、侍臣に謂いて曰く「中書、門下は、機要の司なり。才を擢(ぬき)んでて居らしめ、委任実に重し。詔勅もし穏便ならざるあらば、みなすべからく執論すべし。このころ、ただ旨に阿(おもね)り情に順(したが)うを覚(おぼ)ゆ。・・・今より詔勅に穏便ならざるあるを疑わば、必ずすべからく執言すべし。妄りに畏懼(おそ)れることあり、知りて寝黙するを得ることなかれ」<君主の命令におかしなところがあれば、黙っていないで指摘せよ。ましてや“忖度”するような役人であってはいけない、ということでしょう。 p.49>
  • 武器よりも民衆生活を 貞観四年、房玄齢(側近)奏して曰く「今、武庫を閲するに、甲仗(武器)、隋の日に勝ること遠し」と。太宗曰く「兵をあつめて寇(あだ、敵)に備うるは、これ要事なりといえども、然れども、朕ただ卿らが心を理道に存し、務めて忠貞を尽くし、百姓をして安楽ならしめんことを欲す。すなわちこれ朕の甲仗なり。隋の煬帝は、あに甲仗足らざるがために、もって滅亡に至りしならんや。正に仁義修めずして、群下叛くに由るが故なり。よろしくこの心を識り、常に徳義をもってあい輔(たす)くべし。」<隋の煬帝が滅びたのは軍備を怠ったからではない。徳義を失ったからだ。軍備を増やせなどと間違ったことを考えるな。p.145>
  • 兵は凶器なり 貞観四年、有司(政府の高官)上言すらく「林邑(ベトナムのチャンパー)は蛮国にして、表疏(上表文)、順ならず。請う兵を発してこれを討撃せん」。太宗曰く、「兵は凶器なり。やむを得ずしてこれを用う。故に漢の光武(後漢の光武帝)云う、「一たび兵を発する毎に、覚えず頭髪、白となる」と。古より以来、兵を窮め武を極めて、いまだ亡びざる者あらざるなり。苻堅自ら兵の強きをたのみ、必ず晋室を呑まんと欲し、兵を興すこと百万、一挙にして亡べり。隋主(煬帝)もまた必ず高麗(高句麗)を取らんと欲し、頻年労役し、人、怨みに勝(た)えず。ついに匹夫の手に死せり。頡利(けつり、突厥の可汗)の如きに至りては、往歳しばしば来たりてわが国家を侵し、部落、征役に疲れ、ついに滅亡に至れり。朕、今これを見る。あにたやすくすなわち兵を発するを得んや。ただ山険を経由し、土に瘴癘(病気)多し。もしわが兵士疾疫せば、この蛮を克翦(征服)すといえども、またなんの補うところあらん。言語の間、なんぞ意に介するに足らんや」。ついにこれを討たず。<軍隊という暴力装置は凶器である。めったなことでは用いるべきではない。ましてはベトナムは遠く、気候も悪い。征服しても割が合わない。p.231>

 太宗の「兵は凶器なり」という信念は後漢の光武帝、前秦の苻堅(383年、南朝の東晋を責めたが淝水の戦いで敗れた)、隋の煬帝の先例から導かれたことであった。その信念に基づき、ベトナム遠征は実行されなかった。もっとも東突厥との戦いと高句麗への出兵は実施された。それでも太宗の時には対外戦争は極力回避されたと言うことは出来るだろう。朝鮮への軍事行動が活発になるのは次の高宗の時である。それ以前の魏晋南北朝時代の各王朝や隋にくらべれば唐王朝が長続きした要因は、軍事行動に比較的抑制的だったことがあげられると思う。
 ここに取り上げた記事だけでなく、他にも人材登用のあり方、後継者の育成、学問の効用、法律と刑罰など、なるほどと思わせる内容がある。また後宮の女性を解放したこととか、皇后に諫められたエピソードなど興味深いが、できれば守屋氏の文庫本でその一端に触れて下さい。
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書籍案内

呉競/守屋洋訳編
『貞観政要』
初刊1975 再刊2013
ちくま学芸文庫