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煬帝

隋の第2代皇帝。大運河を建設するなど統一国家の建設を進めたが。高句麗遠征に失敗したことを機に民衆反乱が多発し、618年に殺害され隋は滅亡した。2013年、その墓地が発見された。

 通常は“ようだい”とよむ。の第2代皇帝(在位604~618年)。文帝の次子で南朝のを滅ぼすのに功績を挙げ、強引に帝位を奪ったとされている。在位604~618年。豪奢を好み、大運河などの大土木工事を盛んに行った。特に副都として洛陽に都城を建造し東京(とうけい)とした。

大運河の建設

 煬帝は父以来の一大事業として、大運河を建造を継承した。605年には通済渠、608年には永済渠を開削、これによって中国は初めて経済的に一体化したと言うことができる。運河開削は同時に軍事的な目的もあり、徳に永済渠は高句麗遠征に備えた軍需物資輸送を想定していた。しかし、大運河建設は民衆に重い負担となったことも事実であった。大運河の建設は、はじめて華北と江南を結ぶ幹線として機能し、中国の経済的な統一をもたらす大事業であった。

日本との関係

 隋の煬帝の607年、日本の聖徳太子遣隋使小野妹子を派遣した。その国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という無礼な文があったため、煬帝は不快におもったが、朝貢を受けるという立場で受けいれ、翌年には答礼使裴世清を日本に遣わした。こうして日本と中国の国家間の正式な関係が結ばれたが、その背景には、煬帝が高句麗遠征を計画していたので、日本と結ぶ必要があったことも指摘できる。

高句麗遠征に失敗

 対外的には北方の突厥との戦いでは勝利したが、612年に始まり、三度にわたる朝鮮半島の高句麗遠征には失敗し、民衆が離反、内乱が起こって618年3月に離宮の揚州(江都)で親衛隊の隊長に殺害され、隋は滅亡した。

Episode “ヨウダイ”の父親殺しはほんとか

 この人物は教科書でも“ヨウダイ”となっているが、“ヨウテイ”でもまったくかまわない。昭和の初めの東洋史の大家桑原隲蔵が“ヨウテイ”と訓むべし、と言っていることが、高島俊男『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫)で紹介されている。帝は呉音で“タイ”とよみ(帝釈天など)、上に別の語がつくときは“ダイ”とよむ。漢音では“テイ”。日本では奈良時代に長江南部の呉音が入ってきて、平安時代に長安付近で使われていた漢音が入ってきた。煬帝を“ヨウダイ”とよむのはあくまで“よみくせ”であり、その父の文帝(ブンテイ)と同じく、ヨウテイとよんでもかまわない。なお、煬帝は中国史でも一二をあらそう暴君であり、父を殺して帝位に就き、農民の苦しみを顧みず享楽にふけったとされている。煬帝が父を殺害して皇帝となったことは正史の『隋書』に書かれているが、高島俊男氏は本紀と列伝の記事を検討して、それについても疑問を呈し、「“煬帝の父親殺し”というのは、まことにばかばかしい、つじつまのあわない、マンガみたいな話のよせあつめ」だと断じている。<高島俊男『しくじった皇帝たち』2008 ちくま文庫 p.40>

NewS 煬帝の墓、発見される

 これまで史料で伝えられたことによれば、煬帝は618年3月、江都宮(揚州)に攻め込んだクーデタ兵によって殺され、遺体はそのまま放置され、兵乱が去った後に皇后蕭氏は配下の女官たちを指揮して、ベッドの敷板をはがして棺を作り、宮殿に仮埋葬したという。しかしその墓はどこか、わからなくなった。そこで清代になって揚州の北郊にあった古墓を煬帝墓と認定して、観光客を集めてきた。
 ところが、2013年春、揚州市の西郊外で発掘された墳墓から、「隨(隋)故煬帝墓誌」と刻まれた墓誌が発掘され、煬帝と蕭皇后を埋葬した墓であることが確認された。墓誌は風化が進んでいたが、埋葬が唐の太宗の貞観九年(元年とみる説もある)であることが読みとれた。唐に倒された前王朝最後の皇帝である煬帝は、唐の太宗によって、江都の郊外に陵墓を築き正式に埋葬されていた。しかも傍らの墓室には皇后蕭氏も眠っていた。これを合葬という。ただし、正規の皇帝としてではなく、皇帝の墓には玉石を短冊状に並べる「哀冊」が添えられるが、ここでは墓誌で代行されていた。しかしそのお蔭で、私たちは歴史上唯一といってよい皇帝の墓誌に巡りあうことになったのである。<氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国 隋唐時代』中国の歴史6 2020 講談社学術文庫 p.409-410>
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書籍案内

高島俊男
『しくじった皇帝たち』
2008 ちくま文庫

氣賀澤保規
『絢爛たる世界帝国
隋唐時代』
中国の歴史6
2020 講談社学術文庫

初刊は2005年だが、2020年刊の文庫版は、新たな情報を巻末で補っている。