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楊堅/文帝

581年に隋を建国した初代文帝。589年に南朝の陳を滅ぼし、中国を統一。律令制国家として均田制・府兵制などを整備し、科挙を創始して中央集権体制を作り上げた。

隋文帝

隋文帝・楊堅
中国のトランプより

 中国の統一王朝、をおこした人物。北朝の、北周の宣帝の外戚として実権を有し、581年2月13日に静帝から禅譲(平和裏に位を譲られること)を受けて帝位に就いて隋王朝を開いた。年号を開皇とし、都の長安を大興城と改めた。楊堅は帝号は文帝、廟号(死後にあたえられる号)を高祖という。

楊堅の権力掌握まで

 楊堅は北朝の北魏以来の鮮卑の武人の家に生まれ、父の楊忠は西魏で八柱国十二大将軍の一人として活躍した。さらに西魏の実権を奪った宇文泰が子を初代皇帝として建国した北周において、楊忠は随国王(この段階では隋ではなく随の字を用いた)に封じられた。その子楊堅は西魏の541年に生まれ、北周に仕えて父の随国王を継承、573年に長女が北周の武帝の皇太子妃となった。
北周の帝位を奪う 575年、35歳のとき、北周の将軍として水軍3万を率いて黄河を下り、北斉を攻撃した。その後、579年に北斉を滅ぼし、北周の華北統一に大きな貢献をした。北周の皇太子が15歳で宣帝として即位すると、楊堅はその外戚として大前疑という最高位についた。宣帝は淫乱で楊堅の娘以外にも皇后を五人も建てるという暴挙に出て、楊堅を遠ざけたが、580年ににわかに死去、7歳の静帝が即位すると宮廷は楊堅の強大な武力を利用しようとしてその復帰を認め、楊堅は丞相として実権を握った。楊堅の権力に反発した鮮卑尉遅部などの反乱が起こったが、楊堅は漢人有力者の協力の下、それらを抑えて政権独占を果たした。

楊堅の出自 関隴集団

 楊堅は後に隋を建国して皇帝となってから、後漢以来の漢人の名門楊氏の子孫であるという家系をつくったが、事実は鮮卑系であり、北周の宇文泰や後の唐朝を建てた李淵などと同じ、関隴集団に属していた。関隴とは陝西省(関)・甘粛省(隴)地方のことで、北魏の時代の六鎮の一つ武川鎮を中心とした鮮卑系及びそれと結んだ土着の漢人支配層を関隴集団と言った。その中の有力な武将は皇帝一族と婚姻関係を結び、胡漢融合政権である北魏・西魏・北周の各王朝で八柱国十二大将軍などに任命され、府兵制の軍隊指揮官として実力を蓄えた。要するに、楊堅は、漢人化した鮮卑系軍人の出身といってよいであろう。この関隴集団は隋だけではなく、次の唐を建国した李淵も属しており、北魏・西魏・北周・隋・唐と続いた北朝系の王朝を支えた勢力として注目されている。

隋の文帝の統治

 楊堅は北周静帝の禅譲を受けて581年に即位し、初代皇帝として604年まで在位した。北魏の孝文帝から始まった、鮮卑(胡人)と漢人の融合国家(胡漢融合国家)を発展させ、新たな中国史の時代を築いた人物として、その施策には重要な事項が多い。
律令制度の整備 即位の年に開皇律令という律令制度を制定し、北魏以来の均田制租庸調制や西魏の府兵制などの軍国体制を継承して完成させたことは重要である。また、中央の三省六部と地方の州県制を整備し、中央集権体制を作り上げた。
科挙の創始 587年科挙をはじめて実施し、それまでの九品中正に代わる人材登用のルールとし、律令政治を支える官僚制度の前提とした。科挙は中国各王朝の官吏登用制度として継承され、清王朝の20世紀初頭まで続くことになる。
運河の建設 文帝は新たな都城として大興城を建設し、大興城から黄河に通じる運河(広通渠など)を建設した。これは次の煬帝の大運河の建設へとつながる。
 これらの施策により、隋の文帝の統治は安定し、後に“開皇の治”とも言われている。また政治の安定を背景に、長江を越えて江南に攻め入り、南朝の陳を滅ぼして中国の統一を実現した。

中国の統一

 隋の文帝は、北方では突厥を圧迫して、583年に東西分裂に追い込み、さらに南朝のに大攻勢をかけ、589年に滅ぼし、三国時代から晋の一時的な統一をはさんで南北朝まで約370年にわたった分裂時代(魏晋南北朝時代)を終わらせ、中国の統一を再現した。
一衣帯水(長江)を渡る 北朝の北周が倒され、隋が登場したころ、南朝のの皇帝は都の建康で安逸な生活を送り、警戒を怠っていた。それは未だかつて遊牧騎馬民族系である北朝の軍が長江を渡って攻めてきたことはない、という過去の事実があったからである。北斉も幾度となく南渡を試みては、長江に阻まれて撃退されていたので、江南にある国にとっては「長江は長城にもまさる障壁」だった。
(引用)ところが、隋の文帝楊堅は違った。「我は百姓(すべての人の意味)の父母たり、豈に一衣帯水に限られて之を拯(すく)わざる可けんや」(『南史』陳本紀)と言い放って、長江を天険とせず、密かに大量の軍船を造らせ、また間諜工作や後方の攪乱工作を進めて、攻撃の時をうかがった。今では、日中間の交流の緊密さを言うときに使われることの多い「一衣帯水」(一本の衣の帯のような狭い水域)は、本来は長江をさす言葉であった。
 隋の開皇八年(588)冬十月、長江の八方面から五十一万八千の大軍をもって陳への攻撃を開始すると、翌年の一月には建康を陥落させ、陳が領有していた江南の州郡を隋の版図に組み入れ、ここに隋による天下統一がなった。開皇九年、589年のことである。漢末から数えれば四百年、西晋末から数えても三百年近い歳月を経て南北の分裂局面が収束された。中国史上の一大事件であったと言ってよい。<稲畑耕一郎『中国皇帝伝』2013 中公文庫 p.130-131>

Episode 文帝の不明朗な死

 文帝には二人の子がいたが兄の太子勇を廃し、北斉攻撃でめざましい働きをした弟広を建てていた。文帝は604年に重い病にかかった。文帝は独孤皇后が死後、陳の宣帝の娘宣華夫人を寵愛していた。病身の文帝の側には宣華夫人と皇太子広(後の煬帝)が付き添っていた。夜明けに夫人が更衣に出たとき、太子広はこれに迫った。夫人はようやく逃れて文帝のもとに帰ったが、文帝はその顔色が尋常でないのを見てたずねると、夫人ははらはらと涙を流して「太子無礼なり」と思わず叫んでしまった。文帝は怒って広を皇太子にしたことを悔やみ、近臣に勇を呼ぶよう言いつけた。それを知った太子広はにわかに腹心を文帝の寝殿に入れ夫人以下の後宮の人々をすべて退出させた。まもなく事態の急変にぶるぶる震える夫人や宮人に、文帝の死が伝えられた。その夜、太子広は宣華夫人に密かに手紙を送って一室に呼び出し、一夜を過ごした。これは『隋書』宣華夫人伝に記されている。煬帝として即位した太子広は、まもなく廃太子勇を殺してしまった。<布目潮渢/栗原益男『隋唐帝国』1997 講談社学術文庫 p.44-45>
 この話は、隋を倒した唐の時代に編纂された『隋書』に記されているが、隋書は煬帝を殊更に悪逆な皇帝だったとして描いているので、事実では無いという指摘もある(煬帝の項を参照)。