北斉
東魏の皇帝から禅譲を受けた高洋が550年に建てたが、20数年で北周に滅ぼされた。
550年、東魏から帝位の禅譲を受けた高洋が即位した(文宣帝)。禅譲とは言え、実態は王朝の簒奪であった。王朝名は斉であるが、南朝の斉と区別するために、北斉という。都は東魏の鄴(河北省)を継承した。
北斉は西魏の圧力に耐え、一時は北方の突厥を破るなど盛んであったが、しかし北方系軍人と漢人官僚の対立は続き、さらに西域商人の出身という和士開(かしかい)が実権を握るなど、混乱が収まらず、西魏に代わって登場した北周の楊堅(後の隋の文帝)に攻撃され、577年に滅ぼされる。
東魏から禅譲を受ける
高洋は、東魏で実権を握っていた高歓の次男。父の高歓は鮮卑系で北鎮の一つ懐朔鎮の軍人として台頭し、北魏の混乱のなかで洛陽での主導権を握り、孝武帝を擁立して実質的支配者となった。孝武帝は高歓の専横をにくみ長安の宇文泰と結んで西魏を建てたので高歓は534年に孝静帝を擁立して東魏とした。高歓は北魏の東西分裂をもたらした人物と言える。高歓の死後、長子の高澄は、高歓の部将の侯景の離反を克服して実権を継承し、いよいよ東魏の名目的な皇帝から禅譲を受けることとなったが、急死し、弟の高洋が即位することになった。北斉は西魏の圧力に耐え、一時は北方の突厥を破るなど盛んであったが、しかし北方系軍人と漢人官僚の対立は続き、さらに西域商人の出身という和士開(かしかい)が実権を握るなど、混乱が収まらず、西魏に代わって登場した北周の楊堅(後の隋の文帝)に攻撃され、577年に滅ぼされる。
Episode 皇帝、酒乱の変質者になる。
北斉の初代皇帝となった高洋(文宣帝)という人は、軍事的には天才であって、その初期には政治に熱心で、人々は久しぶりに明君の出現を歓迎した。しかし、北朝の君主の遺伝的な変質者の性格がすぐに現れてきた。評者は「天子にあるまじき種々の醜行をかさねたほか、殺人に対して異常な嗜好を有し、小説にある吸血鬼を地で行く変質者であった」と断じている。(引用)かれは即位ののちに東魏の廃帝を殺したのをはじめとし、ついで東魏の一族をかたっぱしから殺した。これはせっかく手にいれた帝位を奪回されまいとする用心からである。しかし帝位をうかがうものは前王朝の一族とはかぎらない。かえって自分自身の一族の方が危険だ。そこで今度は一族を殺し出した。ことに人望があって役に立ちそうなふたりの弟を土牢にとじこめて、最後にこれを焼き殺した。……あるいは天子の重荷が、かれの繊細な神経を圧倒して、バランスをくずしてしまったのであろうか。かれは急に酒色にふけり狂暴となって、酒に酔うと血を流さねばすまぬ変態病にとりつかれた。大臣たちはやむをえず、死刑囚を準備させて宮中に養っておき、酒乱の天子の犠牲に供した。そのかわりにこの犠牲は、三ヶ月以内に用がなかったおりには放免してもらえたとおいう。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.229-230>