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東魏

北魏が分裂して534年に成立した国家。都は長安から鄴に移る。北魏の軍人高歓が皇帝を擁立した。拓跋国家を継承し、550年に北斉となる。

北魏の分裂

 523年、北魏の漢化政策や、貴族制の導入に反発した、北方系の軍人が反乱を起こし(六鎮の乱)、北魏は大混乱に陥った。その中から台頭した軍人の高歓が、534年北魏の孝静帝を擁立し北魏の東半分(山西省以東)を支配、都を鄴(ギョウ)(河北省)に定めた。自らは晋陽に「幕府」を開いた。この東魏に対して、地方軍団長の宇文泰は535年、孝武帝を立て長安を都に、自らは華州に「幕府」を開いて華北の西半分を支配し、西魏が分立した。
 東魏はその後、拓跋氏(孝文帝のとき漢風に改姓したので元氏となっていた)の皇帝は名ばかりで、実権は高歓が握っていた。高歓は547年、西魏討伐の軍を興したが陣中で死去、その長子高澄がその跡継ぎとなった。このとき高歓の部将であった侯景が反乱を起こしたが、失敗して南朝の梁に亡命している(後に梁で侯景の乱を起こす)。侯景の離反の背景には、建国に功績のあった北方系の軍人(勲貴)と、その後に登用された漢人官僚の対立が激しかったことがあり、侯景の梁への亡命後も東魏の政権は安定しなかった。
 農業技術者として名高い、『斉民要術』の著者賈思勰は、北魏から東魏に仕え、山東省高陽の太守であった。

禅譲によって北斉となる

 父に続いて東魏の実権を握り続けた高澄は、いよいよ東魏の皇帝から禅譲をうけることとなったが急死し。弟の高洋が、 550年禅譲を受けて北斉を建国することとなる。