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靺鞨

6~8世紀、中国東北地方のツングース系民族の部族を総称して靺鞨といった。渤海国が成立すると高句麗を支配層として靺鞨人との統合が進んだ。

 まっかつ。中国東北地方のツングース系部族名。高句麗を建国した貊族などと同じ系統であるが、実際には多くの民族が含まれていた。中国史料『旧唐書』などには粟末靺鞨、白山靺鞨、黒水靺鞨、鉄利靺鞨、払涅靺鞨、越喜靺鞨、などに分かれていた。彼らの中には高句麗に服属したものも、その北方で服属していないものなどもあった。

渤海国を構成

 高句麗が滅亡した後、唐の支配が及ぶと、靺鞨の中には抵抗するものも現れ、その中の渤海靺鞨の大祚栄が自立して、698年に震国(または振国)を建てた。大祚栄は、高句麗の復興を掲げて、渤海国として唐の冊封を受けた(厳密には最初は渤海郡王)が、一般に689年を渤海の建国としている。
 大祚栄は高麗人であったという見方もあり、渤海の支配層は「高句麗の遺民」と称してていたが、その支配下の民族の多くは靺鞨人であったと思われる。

靺鞨諸族の捉え方

 靺鞨人の捉え方については異論もあり、「7~10世紀前半に満州から朝鮮半島にかけて居住していた、高句麗族・韓族以外の諸種族の総称」とするのが最も正確との指摘がある。そこでは次のように説明されている。
 多様な靺鞨諸族も大きく二つに分類できる。高句麗支配下にあってその影響を強く受けた粟末・白山の南部靺鞨諸族と、主に高句麗の領域外に在ってその影響が小さい黒水以下の北部靺鞨諸族である。この北部靺鞨諸族と南部靺鞨諸族がいた地域は、考古学的にも明確な違いが見られる。渤海の建国の中心になったのは高句麗人と南部靺鞨諸族であり、それが渤海の初期領域だった。その後、渤海は北に勢力を拡大し、北部靺鞨諸族を圧迫していったが、その際、在地勢力は解体せず、首領として支配を委せるという間接統治をとった。時間がたつにつれ、渤海中心部の高句麗人は次第に南北の靺鞨人と融合し、渤海人を形成するようになった。渤海国滅亡後は、多くの渤海人は漢族に吸収され、一部は高麗に亡命して朝鮮民族に吸収され、北部に残った北部靺鞨諸族は渤海滅亡後に女真と呼ばれるようになり、やがて金・清を建国し、今の満人へとつながっていく。<古畑徹『渤海国とは何か』2018 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 Kindle 835/4936>
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