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遣唐使

飛鳥時代から奈良時代、日本の律令政府が唐に派遣した使節。630年に始まり、894年に停止されるまで続いた。

 聖徳太子時代の遣隋使に続き、630年、犬上御田鍬らが派遣されたのが第1回。日本は舒明天皇、大臣は蘇我蝦夷だった。618年に成立したでは太宗貞観の治の時代にあたる。太宗は632年、第1回遣唐使の帰国に同行させ、高表仁を日本に派遣している。遣唐使の派遣によって、唐の律令制度による国家建設に関する情報がもたらされた朝廷では、蘇我氏など有力豪族の連合政権から脱して、天皇による中央集権体制建設への動きが強まり、645年の大化改新へと向かう。
 遣唐使の派遣は、白村江の戦いなどの日本と唐・新羅の関係の悪化から、幾度か中断されながら、9世紀まで15回派遣されている。遣唐使は通常4隻の船から構成され「よつのふね」と言われた。また当初は朝鮮半島沿いの北路がとられたが、新羅との関係が悪化してからは東シナ海を横断する南路をとるようになり、途中で難破することも多かった。遣唐使に従って吉備真備・僧玄昉など留学生・留学僧が唐の文化を日本に持ち帰り、天平文化を開花させた。また754年には唐から高僧鑑真が日本に渡り、唐招提寺を建て日本の仏教に大きな役割を果たした。遣唐使を通じての日本と唐の関係は非常に密接であったといえる。(ただし、新羅は唐との冊封関係を結んだが、この時期の日本は唐の皇帝から官名を与えられることはなかった。)894年に菅原道真の建言により、遣唐使は停止される。
 なお、727年渤海からの使節が来航、それ以降、渤海使の来日と日本からの遣渤海使の派遣が行われた。遣唐使が渤海経由で往来したこともあった。

Episode 唐王朝に仕えた日本人

 717年の第8回遣唐使とともに吉備真備らとともに唐に渡った阿倍仲麻呂は、そのまま唐に残り、朝衡(ちょうこう)と名乗って玄宗以降の唐王朝に仕え、昇進して安南都護になった。彼が望郷の念にかられて奈良の都を思って詠んだ歌が有名な「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」である。
 また2004年10月には、中国の西安近郊で、日本人の「井真成」(イシンセイ、と読まれている)という人物の墓碑銘の存在が報道され、センセーションを巻き起こした。井真成は、阿倍仲麻呂とちがって、日本側の史料(『続日本紀』など)に見えない人物だったからである。墓碑銘に拠れば、彼は唐王朝に仕え、尚衣奉御という役職に就いたが、開元二十二年(734年)、36歳で亡くなったという。この「井」については、日本の葛井(ふじい)氏にあてる説と、井上氏にあてる説が出されていている。いずれにせよ、この墓碑銘の発見は、古代の日中関係の緊密さを示すものとして注目されている。<『遣唐使の見た中国と日本』専修大学・西北大学共同プロジェクト 2005 朝日選書>

遣唐使の停止

 遣唐使は、630年から894年の約250年間に19回任命され、そのうち15回実施され、そのもたらす情報は奈良時代から平安時代の初期に、日本の政治・社会・文化に対する大きな刺激となった。その間、日本は漢文化を受容して貴族文化を形成した。しかし、9世紀の後半になると、黄巣の乱が起きて唐は衰退、日本の律令政府にとっても遣唐使の派遣は負担となってきた。そこで宇多天皇の時、遣唐使に任命された菅原道真が遣唐使の停止を建言し、その結果、894年に停止されることとなった。

遣唐使停止後の対外関係

 遣唐使の停止は中国との関係が絶たれたと言うことではない。貿易の形態で言えば朝貢貿易という形式をとらなくなったと言うだけであって、むしろ宋と平安後期の日本はより活発な民間の交易が展開されていくことに注意しよう。しかし、国家間の正式交渉がなくなったことによって日本側の政権内部に国際情報が入らなくなったことは確かである。1019年の刀伊の入寇に際しての京の公家政権の対応には彼らの国際的な知識の欠如が如実に表れている。
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『遣唐使の見た中国と日本』
専修大学・西北大学共同プロジェクト
2005 朝日選書