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資治通鑑

北宋の司馬光の著した歴史書で、編年体で記述し、儒教の宋学の立場から大義名分論を展開した。1084年に完成、神宗に進呈された。

 しじつがん。宋(北宋)の政治家、司馬光の書いた歴史書。戦国時代の始まる紀元前403年から、五代までの生起した事柄を年月順に記述する編年体のスタイルの歴史書の代表的なもの。その著述は厳格な君臣の別、華夷の別を明らかにすることで貫かれており、為政者としての君主の範となる事例に豊富である。そのため南宋の朱熹(朱子)はこの書をもとに『資治通鑑綱目』を著し、大義名分論を完成させた。
 司馬光が華夷の別を特に強調した背景には、北宋が北方民族のによって燕雲十六州を奪われ、屈辱的な澶淵の盟を締結せざるを得なかったことに対する悲憤があった。 → 宋代の文化

資治通鑑の完成報告

 司馬光が1084年に完成させた『資治通鑑』について、司馬光自らが神宗に完成を報告した「資治通鑑を進むるの表」という文があり、司馬光がその編纂にあたってどう考えていたかを知ることができる。文庫本『資治通鑑』の編者田中健二氏もいうように「端正な古文のスタイルを借りて詳しく語られ、皇帝にささげる文章でありながら、心にもない浮飾やむなしい誇張はほとんど見あたらず、むしろかれの人がらをにじませた率直な発言が、ところどころ読者の胸にしずかに迫るであろう」という文である。
(引用)臣光、言えらく、先ごろ勅(みこと)のりを奉じて歴代君臣の事迹を編集し、又、聖旨を奉じて名を『資治通鑑』と賜わる。今、已に了畢せるものなり。臥して念うに、臣は性識愚魯、学術荒疎にして、凡百の事為、皆な人の下に出ずるも、独り前史に於いては、粗(ほ)ぼ嘗(つね)に心を尽くし、幼より老に至るまで、これを嗜みて厭かず。毎(つね)に患(うれ)う、遷・固以来、文字繁多にして、布衣の士といえどもこれを読みてあまねからず、いわんや人主に於いては、日に万機あれば、何ぞあまねく覧(み)たもうに暇あらんや、と。臣は常にみずから揆(はか)らず、冗長を刪削(さんさく)し、機要を挙撮して、専ら国家の興衰に関わり、生民の休戚に繋り、善の法と為すべく、悪の戒めと為すべき者を取りて、編年の一書をつくり、先後倫あり、精粗雑(まじ)らざらしめんと欲せしも、私家、力薄うして、成すべきに由なかりき。<司馬光/田中謙二訳『資治通鑑』ちくま学芸文庫 p.567>
 遷・固とは司馬遷班固のこと。彼らの『史記』・『漢書』から始まった紀伝体の正史は、司馬光に言わせれば「文字繁多」で普通には読みこなせず、まして多忙な天子は読む暇が無い。そこで自分は冗長を避けて編年体の一書を編もうとした、という。
(引用)上は戦国より起(はじ)め、下は五代に終わる。凡そ一千三百六十二年、二百九十四巻を修成す。又、事目を略挙し、年を経、国を緯として、以って検尋に備え、目録三十巻を為(つく)る。又、群書を参考し、その同異を評して、一塗に帰せしめ、考異三十巻を為る。合わせて三百五十四巻なり。治平(年号)に局を開きしより、今におよびて始めて成る。歳月淹久、其の間抵捂あること、敢えてみずから保せず。罪負の重きこと、固(もと)より逃がるる所なし。臣光、誠惶誠懼、頓首頓首。<司馬光/田中謙二訳『同上書』p.574>
 戦国時代から五代までの1362年にわたる歴史を294巻にまとめ、他に目録30巻、考異30巻、合わせて354巻という書物とした。編纂作業は治平三年(1066年)に始め、完成まで19年を要したという。
 資治通鑑という漢籍そのものに触れる機会がない我々にとっては、唯一、ちくま学芸文庫の田中謙二氏の編訳本が手軽に読める本である。もちろん大部な資治通鑑の全訳ではなく、戦国時代の始まりとなった晋の内紛、漢の党錮の禁、南北朝時代の侯景の乱、唐の安禄山の反乱という四つの出来事の部分のみを訳出したもの。安禄山の乱については詳細で、興味深い話が多い。巻末の「資治通鑑を進むるの表」と、田中氏の解説が役に立つ。
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司馬光/田中謙二編訳
『資治通鑑』
2019 ちくま学芸文庫