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蘇軾(蘇東坡)

北宋の政治家、文章家。旧法党の一人。詩文、絵画にすぐれ唐宋八大家の一人とされる。代表作『赤壁の賦』。

 蘇軾(そしょく 1037~1101)。11世紀後半の宋(北宋)の政治家、文章家。号を蘇東坡(そとうば)という。父は蘇洵、弟は蘇轍(そてつ)で、いずれも文名が高く、政治家としても活躍したので、「三蘇」とも言われる。また水墨画にもすぐれ、文人画の大家でもあった。

王安石の改革に反対

 科挙に合格した士大夫として中央政界に入り、王安石の改革に反対した。特に募役法に対しては、辺地の官人が利を得ようとするのはやむをえない人情であるとして反対した。そのため、旧法党の中心人物と見なされ、新法党によって二度にわたり左遷されている。その号の東坡は、左遷されて隠棲した河南省の地名である東坡に因んでいる。なお、弟の蘇轍も新法に反対し、青苗法に異を唱えたため、王安石も一時その施行を思いとどまったという。
 その詩文は格調が高く、古文の復興をめざし唐宋八大家の一人に数えられている。代表的な作品に、黄州に左遷されたときに、三国時代の赤壁の戦いの古戦場を訪ね、その感慨を詠んだ『赤壁の賦』がある。 → 宋代の文化

Episode 宋代版受験パパ

 唐宋八大家のうち三人を占めるのが蘇洵とその二人の子、蘇軾と蘇轍である。彼らにはこんな話がある。
(引用)著名な文章家三人をつづけざまに出す家が、どのような名流かというと、それがちっともそうではない。(都開封から遠く離れた今の四川省の眉州という田舎町の、おそらくは中小地主であった。)蘇洵の兄の蘇渙が一族の中ではじめて科挙に及第し、任官しているが、蘇洵自身は晩学の人で、四十歳近くなって都の開封に遊学して数年を過ごし、機会を得て臨時試験、制科に応じるが、落第してすごすごと帰郷する。慶暦七年(1047)のことで、二人の息子は十二歳と九歳であった。官途への野心をくじかれた蘇洵が、息子たちに夢を託するようになったのは当然のなりゆきといえよう。それからおよそ十年後の嘉祐元年(1056)の春、蘇洵は重大な決意をもって二人の息子たちを連れて開封へと旅立つ。兄は二十一、弟は十八歳になっていた。……かくて兄弟はこの年の秋に開封府試に及第して得解(省試の受験資格を得ること)、次の年、知貢挙欧陽脩のもとに、これまた二人そろって及第したのである。(当時は解試は居住地で受験するルールであったのに、田舎を離れて開封で受験できた理由はよくわからないが)今日ふうに言えば、さしずめ越境受験ということになるだろうが、すべては父親の息子たちに賭けた夢と期待の大きさを物語っているといえよう。そして息子たちはみごとにそれに応えたのであった。<村上哲見『科挙の話』講談社学術文庫 1980 p.203-207>

Episode 蘇東坡の竹

蘇軾、竹図
蘇軾 墨竹図
 蘇東坡(蘇軾)は文人画(墨絵画家)の大家としても知られるが、都市計画の専門家でもあった。かつてない大規模なタケ製の水道網を杭州(1089年)と広東(1096年)に建設している。行政官を務めていたある日、蘇東坡は借金が返せない農民を裁いていた。そのあわれな男を気の毒に思い、自分の筆と紙を取り出し一気にタケの絵を描きあげると、その絵を売って借金を返すようにと農民に手渡した。<ビル・ローズ『図説世界史を変えた50の植物』2012 原書房 「タケ」の項 p.19>

Episode ライチを毎日300個食べる

 蘇東坡はまた、食通としても知られていた。ことのほか茘枝(ライチ)が好きで、毎日300食べたという記録がある。おそらく歴史上のライチ大食い競争の優勝者であろう。茘枝は中国南部によくみられる果物で、最近は日本のスーパーでも見られ、食べることが出来るようになった。中国人は果物の中で茘枝がお気に入りで、最も有名なのが楊貴妃だろう。楊貴妃は茘枝を生のまま食べるため、早馬で長安の都まで届けさせていたという。<村山吉廣『楊貴妃』1997 中公新書 p.37>
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書籍案内

村上哲見
『科挙の話-
試験制度と文人官僚』
1980 講談社学術文庫