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王安石

宋の政治改革を指導した人物。神宗のもとで1070年から新法と言われる改革を推進し、新法党の中心人物と見なされた。神宗死後は反対派の司馬光ら旧法党が台頭した。名文家としても知られている。

王安石

王安石 1021~1086
中国の歴史教科書より

 宋(北宋)神宗の時の宰相で、1070年に始まる王安石の改革を主導した。また名文家としても著名で唐宋八大家の一人に加えられている。

神宗に召し出される

 19歳で即位した宋の神宗(在位1067~1085年)は、財政の窮乏を救い、国富を充実させ、遼・西夏に対する屈辱をはらすのを念願とした。王安石は若くして科挙の進士に合格し、その学力を認められ有識者の間で人気がたかかったが、しばしば政府より重要な官職につくことを誘われながら、ことわりつづけていた。そのような王安石に神宗は強く仕官を求め、王安石もそれに応えて改革にあたることになった。

Episode 有能であったが敵も多かった王安石

 王安石は一度目を通したことは終身忘れず、飛ぶような速さで筆を運びながらその文章は精妙を極めたという。19歳の若さで即位した神宗はそのような王安石を信任し、王安石もそれに応えて改革を断行した。しかし、自分の才能をたのみ、先輩・同輩の忠告をいれない態度はいたって不人気だった。王安石は「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難された。天変地異も畏れず、太祖以来の宋の法律を守ろうとせず、時の人の批判に耳をかさなかった、というのである。<貝塚茂樹『中国の歴史』中 岩波新書 p.152>

王安石の改革

 1070年に始まった王安石の改革は、青苗法・募役法・方田均税法・保甲法など一連の「新法」を打ち出した。その眼目は、宋王朝の財政を安定させ、富国強兵を図ることにあった。新法の施行とともに各地で水利工事が行われ、農業生産は増加し、租税収入も増収となって財政は安定に向かい、軍備も増強された。
 しかし、新法の強行は守旧派の官僚や大地主の利益を損なうことになったので、王安石に反対する勢力も大きく、彼らは王安石の新法党に対して旧法党といわれ、その中心にはやはり有能な官僚だった司馬光がいた。

王安石の失脚

 王安石の改革が進められいた時期に、黄河流域でイナゴの害と干魃が同時に起こったことをきっかけに、多くの農民が土地を捨て流民となる事態が起こった。このことを旧法党は王安石の改革が民衆を苦しめているために起こった、として反新法の一大キャンペーンを展開した。彼らに動かされた神宗の生母の皇太后は「王安石は新法を用いて天下の大乱を招こうとしている」と泣いて訴えた。それに動かされた神宗は、1076年に王安石を罷免し、改革は頓挫した。その後に一時復帰したが、政争があいつぎ、しだいに改革は停滞していった。神宗の死(1085年)によって王安石は辞職し、その翌年、新たに宰相となった司馬光が王安石の新法をことごとく廃止したため、改革は終わりを告げ、王安石はその年4月に死去した。その好敵手であった司馬光も、宰相になったばかりであったが、同年10月に亡くなった。
 宋ではその後も新法党旧法党の対立が続き、北宋は衰退に向かう中で、12世紀には北方からのの攻勢を受けるようになる。 → 靖康の変
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