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ラームカムへーン王

13世紀末のタイのスコータイ朝の王。支配をカンボジア、ビルマ、マレーまで拡げ、タイ文字を造り、上座部仏教を保護した。1292年にラーマカムヘン王碑が作られた。

 タイスコータイ朝第3代目の王(ラーマカムヘンとも表記)。在位1279年頃~1299年。王は支配領域をカンボジアやビルマ、マレー半島にまでのばし、全盛期をもたらした。また、1283年にタイ文字(シャム文字)を考案させ、自らの業績を碑文として残している。また上座部仏教を国家の理念として保護した。都スコータイには現在も仏教遺跡が多く残っている。

ラーマカムヘン王碑文

 ラーマカムヘン王が創始したタイ文字(シャム文字)はクメール文字の草書体から派生したもので、1292年に作られた王の偉業を讃えた碑文で用いられている。その碑文にはこの王の善政が述べられており、次のような有名な部分がある。
(引用)ラーマカムヘン王の頃、スコータイの国はよかった。水の中に魚が住み、田には稲穂が実った。国主は道中の住民から税を徴収しなかった。牛を引いて商いに行く者、馬に乗って売りに行く者、誰か象を商いたい者は商いし、誰か銀か金を商いたい者は商いした。臣民であろうと、王族、貴族であろうと、誰であろうと亡くなれば、亡くなった父の家屋、一族、装身具、馴象、妻子、穀物、従者、その家系の父のビンロウ樹の林、キンマの木は、ことごとくその子に継承される。<生田滋/石澤良昭『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 1998 中央公論新社 p.209>

Episode 国王と父として崇拝する原点

 ラーマカムヘン王碑文はタイ語で書かれた最古の石碑で、国王の事績を讃えている。実はこの碑文を発見したのは現在のタイ(ラタナコーシン朝)王国ラーマ4世で、即位前のモンクット王と言われていた1833年のことだった。そんかことから、この碑文は13世紀のものではなく、19世紀にモンクット王自身が作成したのではないかとの説が出され、学会で論争となった。もしこの碑文が後世に作られたものだとすれば、ラーマカムヘン王の存在も疑われることになり、タイのナショナル・ヒストリーにとっては揺るがせない大問題である。しかし現在では碑文の史料性は高いとする意見が一般的であって、ラーマカムヘン王の存在は揺らいでいない。
 ラーマカムヘン王碑文に描かれるスコータイ王国は、古き良きタイ王国の原型であり、国家の父である国王が国民を子のように思う温情によって治めていた。この国王の姿を再現しようとしたのが現代の国王プーミポン(在位1946~2016)であった。現在のタイでは国王誕生日が父の日であり、国王が国民全体の父であるという認識が浸透しているが、その思想の原点はこのラーマカムヘン王にあった。
 ラーマカムへン王は後の時代のナレースアン王(在位1590~1605年、ビルマの支配からアユタヤ朝の独立を回復した)・チュラロンコン王(在位1868~1910年、ラタナコーシン朝。タイの近代化を進めた)とともにタイの三大王(マハーラート)として崇められており、その名は1971年に作られたバンコクにあるタイ初のオープン・ユニバーシティー(高校卒業資格があれば入学試験なしに入学できる大学)やその大学が立地する通りの名称にもなっている。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.37-39>
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柿崎一郎
『物語タイの歴史』
2007 中公新書