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トゥール・ポワティエ間の戦い

732年、ピレネーを越えて侵攻したイスラーム軍をフランク王国の宮宰カール=マルテルが撃退した戦い。

 ウマイヤ朝のイスラーム勢力は西方征服を続け、711年イベリア半島に侵入して西ゴート王国を滅ぼした。このイスラームのヨーロッパ侵入はキリスト教世界に大きな脅威となった。

イスラーム勢力、ピレネーを越える

 720年にはピレネー山脈を越えてガリア侵入を開始した。アキテーヌ公のユードはフランク王国に救援を依頼したが、混乱の続いていたメロヴィング朝の王には抵抗を組織する力はなく、その中心となったのは、宮宰であるカロリング家のカール=マルテルだった。カール=マルテルはフランクの騎士を動員し、732年、中部フランスのトゥールとポワティエの間で、7日間にわたりイスラーム軍と戦い、撃退することに成功した。

カール=マルテルの勝利

 イベリア半島を制圧したイスラーム勢はアブドゥル=ラフマンに率いられ、すでに720年にピレネーを超えてガリアの地中海岸(現在のラングドック南部)に進出し、北アフリカのベルベル人の軍勢にそこを守らせていた。南ガリアの地方政権アキテーヌ侯ユードは北からはフランク王軍、南からベルベル人の軍勢に圧迫されることとなった。ユードがベルベル人の首長と協定を結んだことでアブドル=ラフマンを刺激し、732年の侵入になったと考えられている。イスラーム勢およそ6万がピレネー北端の峠を越えバイヨンヌ、ボルドーへ進み、ベルベル人首長は倒され、ユードの軍勢も蹴散らされ、アキテーヌは略奪された。イスラーム勢はトゥールを目指し北上(サン・マルタン修道院の豊かな財宝のうわせにひかれたともいう)すると、アキテーヌ侯ユードはそれまでの確執を捨てて王国の宮宰に援助を求めた。カール=マルテルは動員令を出し、オルレアンでロワール川を渡り、ポワティエに向かい、ヴィエンウ川とクラン川の合流点近く、両軍は7日間あいだ対峙した。ついにフランク側がイスラーム軍の騎馬隊を潰走させ、アブドゥル=ラフマンも敗死し、フランク軍の勝利て終わった。<堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』初刊1977 再刊 2006 講談社学術文庫 p.81>
フランク軍の戦力 フランクの軍団は、ローマ風の革と鉄の装具に槍と剣を持つ歩兵が主力であった。ローマ、あるいは西ゴートの騎兵の遺制が南ガリアに残っており、豪族の家臣団は重装備で騎乗していたと思われる。カール=マルテルの戦力の中核は、古ゲルマンの従士制の系譜をひく自由身分の戦士団であった。カール=マルテルはこの重装騎兵隊を維持するため、教会・修道院の土地を収公して、封土として与え、教会・修道院に対してはその分を保障する意味で十分の一税を設定した。こうしてフランク王国において封建的土地保有の原型が形成された。<堀越孝一『前掲書』 p.82> → 封建的主従関係

参考 イスラーム側から見たトゥール・ポワティエ間の戦い

 なお、この戦いは、イスラーム側ではアブド=アッラフマーン=アルガーフィキーの率いるムスリム軍が、ローマがかつて築いた敷石道の近くで多数の死者を出した戦いとして「ビラート=アッシュハダー(殉教者たちの敷石道)の戦い」とよんでいる。キリスト教側は大勝利として記録も豊富だが、イスラーム側は数多くの戦闘のなかの一つとしてしか捉えていず、記録は簡潔である。イスラーム側にはそれ以上の侵入の意図はなく、戦利品を獲て撤退すればよいと考えていたらしい。<『新書イスラームの歴史1』講談社現代新書 p.197 などによる>
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書籍案内

堀越孝一
『中世ヨーロッパの歴史』
2006 講談社学術文庫