皇帝・国王 その違い(西洋)
中世ヨーロッパにおいては皇帝は神聖ローマ皇帝のことであり、ドイツ国王、イギリス国王、フランス国王などが別に存在した。またキリスト教世界の世界観ではローマ教皇が聖界の最高権威者であり、皇帝はローマ教皇から加冠されて世俗界の最高権威者としての地位を与えられる者であり、国王より上位の概念であった。
皇帝と国王のちがいは、日本人にはなじみがなく、わかりにくい。なんとなく分かっていても、日本ではゴッチャになってしまいがちだ。しかし、ヨーロッパにおいては両者ははっきりと区別されていた。例えば、戦国時代から江戸時代初めにかけて日本にやってきたヨーロッパ人が残した史料によると、平戸の大名などは国王(キング)とよばれたのに、徳川家康に対しては皇帝(エンペラー)の称号を与えている。皇帝と国王の間は将軍と大名ほどのへだたりあった。<鯖田豊之『ヨーロッパ中世』世界の歴史9 1989 河出書房新社 p.307>
→ 中国に於ける皇帝 ローマ皇帝 ドイツ皇帝
ドイツ王・ローマ王 ドイツ史では神聖ローマ皇帝と同時にドイツ王も存在する。神聖ローマ皇帝の最初のオットー1世は東フランク王国の王(ゲルマン人の習慣では国王は選挙で選出された)に選出されたのち、962年にローマ教皇から皇帝の冠を受けて、称号としては皇帝と東フランク国王の両方を有した。11世紀になると東フランクに代わってドイツ王国という名称が用いられるようになった。同じころ、神聖ローマ帝国では「ローマ王(またはローマ人の王)」という称号が現れた。それはローマ王だけがローマ皇帝になる権利(期待権)をもつと考えられるようになったからだった。ただし概説書では混乱を防ぐため「ローマ王」を避け、「ドイツ王」になることが皇帝になることの条件と説明している。ただし、すべてのドイツ王が教皇から皇帝の冠を受けたわけではなく、皇帝戴冠を行わず(あるいはできずに)死去したドイツ王もいる。<山本文彦『神聖ローマ帝国 「弱体なる大国」の実像』2024 中公新書 p.8-10>
ローマ教皇の加冠がなくとも皇帝に 1356年に成立した金印勅書は、ドイツの有力諸侯のみにより、実質的ドイツ王である「神聖ローマ皇帝」を選出することを定めた<坂井栄八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.57,62>。「ドイツ王=神聖ローマ皇帝」となったといえる。形としてのローマ教皇からの加冠は続いていたが、1508年、マクシミリアン1世は教皇による皇帝戴冠をあきらめ、ドイツ王に選ばれた者は教皇による加冠なく皇帝を称すると宣言した。「選挙されたローマ皇帝」である。こののちカール5世は1530年に教皇から皇帝の冠を受けたが、これが教皇による最後の皇帝戴冠となった。これ以降、国王選挙によって選ばれたドイツ王は、教皇の加冠なくただちにローマ皇帝を名乗るようになった。この段階では皇帝存命中にドイツ王選挙が行われるようになった。それは、皇帝が生きている間に、実子などをドイツ王に選出して、空位あるいは継承争いを防ぐためであった。この場合はドイツ国王選挙が行われてドイツ王が決まれば、皇帝はドイツ王の称号を失う。そして皇帝が死去されると、ドイツ王はただちに皇帝の称号を得て「皇帝にしてドイツ王」とった。皇帝存命中選挙でなく、ドイツ王に選出された者がすぐに皇帝になる場合もあって、その場合は国王選挙ではなく「皇帝選挙」と呼ぶ。その選挙方法はドイツ国王選挙と同じだった。<山本文彦『前掲書』p.10>
皇帝とドイツ諸侯 神聖ローマ帝国は基本的には封建制国家であり、皇帝(同時にドイツ王として)は最高の封建領主として、家臣に領地封土(レーン)として与え、主従関係を結ぶ。その点ではフランス国王、イギリス国王などと同じである。皇帝と直接封建関係を結んでいる封臣(帝国直属者)は、16世紀には約300名をかぞえ、それが次のような身分に分けられていた。身分を上から並べると、選帝侯、大司教、司教、世俗諸侯、高位聖職者、伯とフライヘル(下級貴族など)、帝国都市となっている。これらの中で領邦君主として自律的に行動できたのは選帝侯と聖俗の諸侯である100名程度でありそれら次第に領邦/領邦国家を形成するようになった。それ以外の200名は皇帝と直接結ぶか、集団化するかなどで力を発揮した。これらの皇帝と直接関係をもつ帝国直属者を帝国等族と呼ぶこともあり、領邦君主と封建関係を結んでいる者を領邦等族ともいう。<山本文彦『同上書』p.10-11>
フランソワ1世の神聖ローマ皇帝選挙出馬 ドイツ国王に選出された者が神聖ローマ皇帝となることが認められていたが、選挙で選ばれたドイツ国王は「ローマ国王」であると認識されたので、その選挙は「ローマ国王の選挙」とも言われた。1519年、フランス王フランソワ1世が、カール5世に対抗して神聖ローマ皇帝選挙に出馬したというのは、現代では理解しがたいが、次のように考えられるだろう。ドイツ人ではないのにドイツ王選挙に出ることができたのは、ドイツ国王は神聖ローマ皇帝であるからローマ国王でもある、という認識があり、ローマ国王選挙ならフランス人でも出馬できるという論理になったらしい。今では考えられない論理の飛躍だが、まだ中世末期であり、その後の市民革命後の近代主権国家の確立した時代と同一視してしまうことは出来ないわけだ。
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神聖ローマ皇帝とドイツ国王
ヨーロッパ史ではまず神聖ローマ帝国の神聖ローマ皇帝はドイツ国王を兼ねることが多かったが、イギリス国王・フランス国王は別個な存在だった。ただ、それぞれの国、時期によって事情は異なる。一般に、ドイツ王は神聖ローマ皇帝を兼ねたのでイタリア政策に専念することが多かったので、その統治は緩く、ドイツ国内の封建諸侯の自立の傾向が英仏よりも強かった(そのため王権による国家統一が遅れた)と理解されている。ドイツ王・ローマ王 ドイツ史では神聖ローマ皇帝と同時にドイツ王も存在する。神聖ローマ皇帝の最初のオットー1世は東フランク王国の王(ゲルマン人の習慣では国王は選挙で選出された)に選出されたのち、962年にローマ教皇から皇帝の冠を受けて、称号としては皇帝と東フランク国王の両方を有した。11世紀になると東フランクに代わってドイツ王国という名称が用いられるようになった。同じころ、神聖ローマ帝国では「ローマ王(またはローマ人の王)」という称号が現れた。それはローマ王だけがローマ皇帝になる権利(期待権)をもつと考えられるようになったからだった。ただし概説書では混乱を防ぐため「ローマ王」を避け、「ドイツ王」になることが皇帝になることの条件と説明している。ただし、すべてのドイツ王が教皇から皇帝の冠を受けたわけではなく、皇帝戴冠を行わず(あるいはできずに)死去したドイツ王もいる。<山本文彦『神聖ローマ帝国 「弱体なる大国」の実像』2024 中公新書 p.8-10>
ローマ教皇の加冠がなくとも皇帝に 1356年に成立した金印勅書は、ドイツの有力諸侯のみにより、実質的ドイツ王である「神聖ローマ皇帝」を選出することを定めた<坂井栄八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.57,62>。「ドイツ王=神聖ローマ皇帝」となったといえる。形としてのローマ教皇からの加冠は続いていたが、1508年、マクシミリアン1世は教皇による皇帝戴冠をあきらめ、ドイツ王に選ばれた者は教皇による加冠なく皇帝を称すると宣言した。「選挙されたローマ皇帝」である。こののちカール5世は1530年に教皇から皇帝の冠を受けたが、これが教皇による最後の皇帝戴冠となった。これ以降、国王選挙によって選ばれたドイツ王は、教皇の加冠なくただちにローマ皇帝を名乗るようになった。この段階では皇帝存命中にドイツ王選挙が行われるようになった。それは、皇帝が生きている間に、実子などをドイツ王に選出して、空位あるいは継承争いを防ぐためであった。この場合はドイツ国王選挙が行われてドイツ王が決まれば、皇帝はドイツ王の称号を失う。そして皇帝が死去されると、ドイツ王はただちに皇帝の称号を得て「皇帝にしてドイツ王」とった。皇帝存命中選挙でなく、ドイツ王に選出された者がすぐに皇帝になる場合もあって、その場合は国王選挙ではなく「皇帝選挙」と呼ぶ。その選挙方法はドイツ国王選挙と同じだった。<山本文彦『前掲書』p.10>
皇帝とドイツ諸侯 神聖ローマ帝国は基本的には封建制国家であり、皇帝(同時にドイツ王として)は最高の封建領主として、家臣に領地封土(レーン)として与え、主従関係を結ぶ。その点ではフランス国王、イギリス国王などと同じである。皇帝と直接封建関係を結んでいる封臣(帝国直属者)は、16世紀には約300名をかぞえ、それが次のような身分に分けられていた。身分を上から並べると、選帝侯、大司教、司教、世俗諸侯、高位聖職者、伯とフライヘル(下級貴族など)、帝国都市となっている。これらの中で領邦君主として自律的に行動できたのは選帝侯と聖俗の諸侯である100名程度でありそれら次第に領邦/領邦国家を形成するようになった。それ以外の200名は皇帝と直接結ぶか、集団化するかなどで力を発揮した。これらの皇帝と直接関係をもつ帝国直属者を帝国等族と呼ぶこともあり、領邦君主と封建関係を結んでいる者を領邦等族ともいう。<山本文彦『同上書』p.10-11>
神聖ローマ皇帝とフランス国王
フランス国王は神聖ローマ帝国の皇帝と同格になることを望んだが、その壁は余りにも高く、教皇インノケンティウス3世は、「フランス国王は俗事については上位者をもたない」といったが、同時に「法的にはフランス国王は(神聖)ローマ皇帝」に従属する」と解説していた。したがってフランス国王は、少しでも皇帝権を持ち上げそうな動きにはつねに神経過敏だった。フィリップ2世はローマ教皇と交渉して、パリ大学におけるローマ法の講義を停止させたのは、当時、権力集中の気運が高まるにつれて、君主権の絶対性を説くローマ法がヨーロッパ各地でもてはやされているのに対し、ローマ法のいう権力集中は皇帝権の強化にしかならないのではないか、と恐れたからであった。その結果、パリ大学法学部は教会法だけを対象にしなければならなくなった。<鯖田豊之『同上書』p.308>フランソワ1世の神聖ローマ皇帝選挙出馬 ドイツ国王に選出された者が神聖ローマ皇帝となることが認められていたが、選挙で選ばれたドイツ国王は「ローマ国王」であると認識されたので、その選挙は「ローマ国王の選挙」とも言われた。1519年、フランス王フランソワ1世が、カール5世に対抗して神聖ローマ皇帝選挙に出馬したというのは、現代では理解しがたいが、次のように考えられるだろう。ドイツ人ではないのにドイツ王選挙に出ることができたのは、ドイツ国王は神聖ローマ皇帝であるからローマ国王でもある、という認識があり、ローマ国王選挙ならフランス人でも出馬できるという論理になったらしい。今では考えられない論理の飛躍だが、まだ中世末期であり、その後の市民革命後の近代主権国家の確立した時代と同一視してしまうことは出来ないわけだ。