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イスラームのビザンツ帝国侵攻

7世紀に始まるイスラーム勢力によるビザンツ帝国に対する攻撃。一たん撃退したが、11世紀以降再び強まり、1453年に滅亡する。

 610年にアラブ人のムハンマドがイスラーム教を創始、その宗教と政治・軍事が一体となったイスラーム勢力(アラブ帝国、サラセンなどともいう)は、急速に勢力を拡大、早くもムハンマドの死後2年後の634年に正統カリフ時代のアラブ軍がビザンツ帝国領に侵入を始めた。皇帝ヘラクレイオス1世はササン朝ペルシアとの戦いで疲弊していた軍を率いてシリアに赴いたが、大敗を喫し、シリアエジプトを奪われた。
 → イスラームの西方征服 イスラームのヨーロッパ侵入

ウマイヤ朝の攻勢

 674年~678年にはイスラーム海軍がコンスタンティノープルを包囲し、陥落寸前までいったが、ビザンツは秘密兵器「ギリシアの火」を繰り出して撃退した。さらに717年~718年にもコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオン3世が指揮するビザンツ軍が防衛に成功した。この時期はイスラームの正統カリフ時代からウマイヤ朝の時期にあたるが、750年にアッバース朝に替わりイスラーム世界の中心が東方のバグダードに移されると、ビザンツもその脅威を直接受けることは少なくなる。

Episode ギリシアの火

ギリシアの火
ギリシアの火 8世紀以降のイスラーム軍の侵攻に対してビザンツ海軍が用いた。図は14世紀のもの。
 イスラーム軍を迎え撃ったビザンツ帝国軍は、一種の火炎放射器を使用して反撃した。船の舳や船尾に取り付けた筒から火のついた液体を発射して敵船を焼いてしまうと言うものだ。678年、コンスタンティノープルを包囲したイスラーム海軍に対して初めて用いられ、「火の船」と恐れたイスラーム海軍は囲みを説いて撤退した。これはそのころシリア出身のカリニコスという人が発明したが、ビザンツ帝国の秘密兵器とされたため、その製法はよくわからない。生石灰・松脂・精製油・硫黄などを混合させた液体に火をつけて筒から発射し、敵艦を焼き払うというものであったらしい。この武器はレオン3世の時の717~718年のイスラーム軍のコンスタンティノープル包囲の時も用いられ、この時は陸上でも使われ、またまたイスラーム軍を撃退した。これ以後も長くビザンツは対イスラーム戦でこの兵器を使い、「ギリシアの火」と恐れられた。<井上浩一『生き残った帝国ビザンティオン』講談社現代新書 p.121>

11世紀の攻勢

 イスラーム勢力のビザンツ領侵入は次に11世紀のセルジューク朝の時に激しくなり、1071年のマンジケルトの戦いで敗れて小アジアを奪われ、十字軍の救援要請につながる。

オスマン帝国による攻勢

 十字軍時代の混乱の後、小アジアのオスマン帝国が、14世紀後半からバルカン半島のビザンツ領に侵入、次々と領土を奪われ、ついに1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国は滅亡する。
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書籍案内

井上浩一
『生き残った帝国ビザンティン』
1990 講談社現代新書