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士林/士禍

朝鮮王朝の15世紀末から16世紀、中央政界の両班の中で、新興勢力である士林に対して宮廷上層部の保守派による弾圧事件である士禍がくりかえされた。王朝の統治機構が整備されると共に士林が実権を握ったが、16世紀末から分裂し、党争が始まる。

 朝鮮王朝において科挙制度のもとで、15世紀頃に地方両班層出身者が中央官庁に進出し、新興の官僚となった。彼らを士林(知識人の集団の意味)といい、その勢力を士林派という。かれらは、儒教的な道徳に基づいた政治を志し、朝鮮王朝の建国以来の王族や世襲的な名族の保守的な姿勢を批判するようになり、15世紀末から16世紀にかけて、保守派による士林派に対する激しい弾圧が繰り返された。それを士禍という。

士林

 しりん。朝鮮王朝の建国以来、実権を握っていたのは王族や勲功のあった一族であり、彼らは「勲旧派」と呼ばれていた。かれらは国家機構が安定すると世襲された特権層として次第に腐敗するようになった。それに対して、科挙によって実力で選ばれて官僚となった地方の両班層出身者は、儒教的な道徳政治の実現をめざし、勲旧派の腐敗を批判するようになった。
士林派の基盤 朝鮮王朝の中央官庁は三司と言われる司憲府・司諫院・弘文館が中心であった。前二機関は言官といわれ国王への諫言(意見具申)を任務としたが、その人事権は国王と宰相にあったため十分機能せず、本来は経書と史籍の管理と国王の諮問に答える任務であった弘文館の権限が強くなっていった。弘文館は科挙の文科合格者の中の優秀者から選ばれ、人事面で独立性を有していたため、彼らが次第に士林派を形成するようになった。この体制を成立させた成宗は、保守派の宰相を抑えるために弘文館の官僚である士林派を王権強化に利用しようとしたが、士林派が公論を掲げて王権をも批判しかねない存在になると、保守派と結んで士林派を弾圧するようになった。

士禍

 しか。士禍とは一般に、15世紀末から16世紀前半にかけて、中央政界に進出した新興政治勢力である士林派に対する弾圧事件とされている。例えば、1498年には戊午士禍、1504年には甲子士禍、1519年には己卯士禍などが繰り返されている。士禍に際して蓮座すると職を奪われて、場合によっては死刑に処せられ、死後の場合は墓を暴かれ、死体を切り刻まれるという徹底したものであった。<宮嶋博史『明朝と李朝の時代』世界の歴史 12 中央公論新社 p.107~111>
士林派政権と党争 度重なる弾圧にもかかわらず、朝鮮王朝の三司を中心とした官僚機構が整備されるに伴い、勲旧派はほぼ没落し、士林派は政治の実権を握り、王権も士林派に依存しなければ維持できない状況となっていった。16世紀末になると、士林派政権の内部で権力争いが表面化し、次の17世紀を通じて激しい党争がくりひろげられることとなる。
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書籍案内

岸本美緒/宮嶋博史
『明朝と李朝の時代』
世界の歴史 12
1998 中央公論新社