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足利義満

室町幕府の第3代将軍、1392年に南北朝を統一して幕府支配を安定させ、明帝から「日本国王」に封じられて1404年からの勘合貿易をひらいた。

 室町幕府の第3代将軍、在職1368~94年。山名氏や大内氏など有力守護大名を抑え、将軍権力を確立、1392年には南北朝の合一に成功した。足利義満が将軍となった1368年は朱元璋(洪武帝)がを建国した年、南北朝合一を実現した1392年は李成桂朝鮮を建国した年でもある。足利義満は、京都に壮麗な「花の御所」を造営し、太政大臣ともなって権勢を揮った。義満は将軍・太政大臣を辞した後、天皇の位につくことを構想したと言われているが、実現しなかった。

日明間の勘合貿易を開始

 足利義満は、外交政策では1401年に明に国書を送り倭寇の禁圧を約束して通商を求め、建文帝から「日本国王」に封じられた。さらに1403年には「日本国王臣源道義」として永楽帝に遣使し、勘合貿易の形での朝貢貿易を開始することを認められ、翌1404年から実際の日明間の貿易が開始された。こうして室町幕府による統治の安定と、日明貿易による経済の成長を実現させ、1408年に亡くなった。
日本国王に封じられる 1404年、義満が勘合貿易という形式の朝貢貿易を明の永楽帝に認められたが、その前提は、明朝より足利義満が「日本国王」に封じられたことであった。これは中国王朝の周辺諸国に対する伝統的な冊封体制に入ったことを意味する。これは「親魏倭王」とされた卑弥呼や、「倭の五王」といわれた大和王朝の応神・仁徳ら以来のことで、遣隋使・遣唐使は朝貢のみで冊封は受けなかったので「日中関係史上特異な時代」である。<岸本美緒他『明清と李朝の時代』世界の歴史12 中央公論新社 p.66>
 なお、義満の次の4代将軍足利義持は、明の冊封を受けた朝貢貿易という形式を嫌い、一時日明間の勘合貿易を中止している。6代義教に時に再開されたが、その時期になると貿易の実験は守護大名大内氏・細川氏、堺・博多の商人に移っていく。

明朝と室町幕府の交渉

 明は建国(1368年)と同時に周辺諸国への朝貢を促したが、日本は南北朝の動乱の時期に当たっていたため混乱しており、明は一時は太宰府を支配していた南朝の懐良親王を正式な「日本国王」と認め、室町幕府を認めていなかった。しかし九州の南朝政権はまもなく倒れ、1392(明徳3)年に足利義満による南北朝統一が達成された。1394年、義満は将軍職を子の義持に譲ったが実権は保持し、1401(応永8)年に「日本准三后道義(義満のこと)」の表文を携えた使節を明に派遣して交渉を開始した。その時に明の皇帝は建文帝で、使節は翌1402年9月、建文帝の詔書と大統暦を携えた明使を伴って帰国した。その詔書には「茲(ここ)に爾(なんじ)日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐き、波濤を踰越して遣使来朝す」とあり、これによって足利義満が日本国王として認められ、明の冊封体制に組み入れられたことを示している。足利義満は明帝の使者を室町将軍家の北山第で迎えた。

参考 足利義満のねらい

 足利義満には、1394年に将軍を辞しただけでなく、翌年には太政大臣の地位も退き出家している。これは律令制の軌範から脱して自由な身分に身を置き、自ら天皇の位を目指していたためと日本史では考えられている。そのような足利義満にとっては明帝から「日本国王」に封じられることは、国際的な権威によって王権を認められる好機と捉えられていた。
(引用)北山第の総門には、左大臣近衛良嗣と内大臣今出川公行両人が出迎え、義満自身も、四足門まで使節を出迎えた。建文帝の返詔を安置した机の前で、義満は焼香を行い、ついで三拝したのち、跪いて返詔を拝見するという、およそこれ以上はないという礼の尽くしかたであった。おのれより弱い者には尊大に、強い者には卑屈になるという、義満の性格の反映と言われるが、義満には義満なりの計算が合った。将来、簒奪の正当性を保障してもらう明帝の国書であってみれば、衆人環視の中で、明の権威の高さを強調しておくことは必要であり、そのための不可欠なパフォーマンスにほかならない。義満の卑屈を嗤うのはたやすいが、それは同時に「万世一系」の超克を目指す義満懸命の努力をも嗤うことになるのである。<今谷明『室町の王権』1990 中公新書 p.117-118>

Episode スリリングな日明外交交渉

 ところが明では当時すでに靖難の役(1399~1402年)の最中で、建文帝は叔父の燕王朱棣に攻められ敗北寸前だった。この状況を見きわめられなかった足利義満は、国書を天龍寺の僧圭密に託し、明使に随行させたが、国書は二通作られていた。建文帝宛のものと永楽帝宛のものの二通である。1403年に一行が中国に上陸してみると、すでに燕王が永楽帝として即位していたから、圭密は抜け目なく、新皇帝の即位を賀する内容の国書を永楽帝に提出した。義満の国書は「日本国王臣源表す」に始まり、即位を祝い方物を献じることを記していた。永楽帝は即位早々、日本から賀使が来朝したことを非常に喜び、翌年答礼の国書を「日本国王」義満に送り、「日本国王之印」と刻んだ金印と十年に一度のわりで朝貢を許した。これによって勘合貿易が開始されることとなり、室町幕府の将軍が「日本国王」として明の朝貢国に組み込まれることとなった。<寺田隆信『永楽帝』中公文庫 p.231-233>
 室町幕府が現代の日本の外務省も顔負けの高度な外交を展開していたことに驚かされる。
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今谷明
『室町の王権』
1990 中公新書