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長崎/出島/唐人屋敷

1570年に開港してポルトガル商人などとの貿易港として栄え、領主大村氏によってイエズス会に寄進される。その後豊臣秀吉・江戸幕府の直轄領となり、出島のオランダ商館は唯一のヨーロッパとの窓口となる。また唐人屋敷での中国貿易が盛んだった。 → 日本とオランダ

 フランシスコ=ザビエルの来日、ポルトガル商人の種子島に漂着以来、ポルトガル商船はたびたび日本を訪れるようになり、宣教師によるキリスト教布教も盛んに行われるようになった。当時の長崎は小さな港に過ぎなかったが、領主大村純忠はポルトガルとの交易の利益のたため自らキリスト教徒となり、その地に教会の建設を認めた。ポルトガル商人の拠点は始め平戸であったが、平戸の領主松浦氏がキリスト教布教に対しては熱心でなかったので、ポルトガル商人は長崎が波風が岬に遮られ、また大型帆船が停泊できる深さのある良好であることに気付き、1570年に大村純忠からこの地に新しい港と居留地を造ることを認めさせ、建設が始まった。

長崎、イエズス会に寄進される

 しかし、当時の九州は戦国時代の最中にあり、大村氏は佐賀の龍造寺氏、さらに薩摩の島津氏に脅かされていた。そこで大村純忠は長崎をイエズス会に寄進することによって領地の防衛にあたることを策し、イエズス会責任者の宣教師ヴァリニャーニと交渉した。1579年、大村純忠はポルトガルから船舶税を徴収すること、日本人に対する裁判権は大村氏が留保することを条件に長崎とそれに隣接する茂木をイエズス会に寄進した。

南蛮貿易の繁栄

 こうしてイエズス会の保護のもと、ポルトガル商人との間で南蛮貿易が盛んに行われるようになった。ポルトガル商人はキリシタン大名に鉄砲(最新のマスケット小銃)と弾薬の原料の硝石を売り、さらに当時日本では生産されていなかった貴重な中国産の生糸及び絹織物をもたらし、日本銀を対価として受け取って利益を得た。また宣教師はこの南蛮貿易を仲介しながらさかんに布教活動を行った。1582年には長崎から天正遣欧使節が出帆した。

長崎、秀吉の直轄領となる

 戦国時代の九州は薩摩の島津氏、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏が三強であったが、1584年に島津義久が龍造寺氏を倒した。この時の島原の戦いではキリシタン大名の有馬晴信は島津氏に加勢し、龍造寺氏を倒したことをデウス(神)に感謝するとして浦上村をイエズス会に寄進した。大村氏は始め龍造寺に付いたが、途中で島津側に転じた。しかし、長崎は島津氏に占領されることになった。1582年に織田信長に代わって全国統一事業に乗り出した豊臣秀吉は島津氏を討つべく、九州に遠征、それを平定した。九州を平定した秀吉は、キリスト教の禁止に方針を転じ、1587年、バテレン追放令を発し、同時に長崎・茂木・浦上を没収、直轄領とし、初代の長崎代官に龍造寺の家臣であった鍋島直茂を任命した。
 これによって要塞の地であった長崎の障壁は撤去され、大村・有馬領の教会はほとんど破壊された。1597(慶長元)年十二月に26人の宣教師や信者が摘発されて処刑されたことが世界のキリスト教徒に知られると彼らは彼らは「聖人」に列せられることになった。昭和36年には刑場あとに記念碑が建てられ、二十六聖人の「殉教の丘」といわれてカトリック信者の世界的な巡礼地とされている。

南蛮から紅毛へ

 17世紀にはいると、日本を巡る国際環境も大きく変化し始めた。それはポルトガル・スペインの後退と、それに代わるオランダ・イギリスの進出である。この両国はそれぞれ東インド会社を設立して、重商主義政策を採り、アジアの中継貿易に参入し、ポルトガルの弱体に乗じて盛んに海賊行為を行うようになった。日本にも進出し両国はそれぞれ平戸に商館を設けた。日本ではこの両国人を紅毛人と呼んで南蛮人と区別した。新教国であった両国は、ポルトガル・スペインがカトリックの布教を勧めることで日本を侵略する意図を持っていると盛んに吹き込んだので、江戸幕府は次第にキリスト教禁止に向かっていく。

江戸幕府の禁教令

 徳川家康は江戸幕府を開くと、秀吉が開始した朱印船貿易をさらに活発に行い、貿易の利益を上げようとした。そのため長崎には村山等安、末次平蔵、荒木宗太郎、高木作右衛門、後藤宗印などの朱印船貿易商人が活躍し、空前の繁栄を迎え、異文化である南蛮文化が横溢する都市となった。そのため、キリスト教布教についても黙認され、慶長14年には全国の信者が75万という最盛期となった。長崎のキリシタンは堂々と十字架を掲げて市中を行進、祈りを捧げる人びとが出てきた。このような状況に危機感を持った幕府は、キリスト教黙認から取り締まり強化に転じ、1612年には天領での禁教令を発し、翌年には全国にそれを広げた。多くの宣教師と日本人信者をマカオとマニラに追放した。マニラに送られた信者の中に高山右近がいたが、彼には大坂城の豊臣氏への加勢を勧誘する使者が派遣されたが、すでにマニラに出帆していたため間に合わなかった。徳川家康の死後はますますキリスト教禁教がきびしくなり、1622(元和8)年には、火刑25名、斬首30名が長崎で処刑されるという元和の大殉教が起こった。

出島の築造

 江戸幕府は鎖国政策を進め、1635年に外国船の入港を長崎一港に限定し、さらに翌36年に長崎の港に出島を築いた。まず平戸からポルトガル人が出島に移され、日本人と隔離された。ポルトガル人の日本人妻や混血児もマカオに追放された。またオランダ東インド会社の拠点であったバタヴィアにも多くの婦女子が送られ、現地から日本に送ったという「ジャガタラ文」が知られている。とくにジャガタラお春の手紙は有名で「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや」という末尾で有名であるが、これはどうやら後世の文人の創作らしい。
 出島は長崎の港の先端に造られた人口の島で、扇型をしており、ただ一本の橋で対岸と結ばれていた。船の出入りは島の西北に面した水門を開けて行われ、それ以外での接岸は許されなかった。オランダ人が出島から出ることはできず、日本人は役人と遊女以外は立ち入れなかった。出島のオランダ商館の館長は日本ではカピタンといわれ、毎年7月、オランダ船の入港と共に交替するのが原則であった。またカピタンは毎年正月に江戸に赴いて将軍に謁見し、土産品の献上と『オランダ風説書』を提出することが慣わしとなっていた。カピタンのもとに総勢10~15名の館員、医者、書記、大工、バター製造などの職人、黒人の下僕がいた。日本側でオランダ商館と折衝に当たるのが長崎奉行で、実務にあたるのが町年寄、大通詞以下の通訳がいた。大通詞は中国人の子孫などが世襲することが多かった。

Episode オランダ正月

 単調なオランダ商館院の無聊を慰めるのは、年に一度の江戸参府と、正月とクリスマスの行事だった。この時は日本人の役人や町役人なども招かれ、文化の交流の場ともなった。オランダ正月は「紅毛正月」とも言われ、太陽暦一月一日に行われ西洋料理が振る舞われ、丸山遊郭の遊女も花を添えた。招かれた日本人はそれを食べずに持ち帰り、塩漬けの肉類やバターなどは肺病などのクスリになるとして珍重され、長崎の町民や、留学している蘭学者たちにお裾分けされたという。クリスマスはキリスト教の行事とは言えないので、冬至を祝うという名目で行われ「オランダ冬至」といわれた。日本の役人もこれがキリスト教の行事だとは見破られなかったという。

長崎貿易

 鎖国時代の輸入品は生糸(白糸)が主であったが、一方で中国商人が唐人屋敷での交易で直接生糸を扱うようになったので、オランダ商人はインドやペルシアの織物を扱うようになった。その他、砂糖、香料、毛織物、更紗、鮫皮、ガラス品(ギヤマン)、時計、眼鏡などの雑貨が多かった。日本からの輸出は銀、後には金が多くなったが、次第にその流出が問題となって、1698年には長崎会所を設けて貿易を統制し、長崎運上という関税を課すようになった。新井白石は1715年、海舶互市新例(正徳新令、長崎新令ともいう)を制定して、貿易の制限をおこない、来航するオランダ船を年に二隻、輸入額は銀600貫目、その見返りとして銅60万斤を輸出することにした。このような幕府の統制によって長崎貿易は幕末まで停滞した。

フェートン号事件

 本国オランダがナポレオンに支配されていた1808年8月、フランスと交戦中であったイギリスの軍艦フェートン号は長崎に入港してオランダ商館を襲撃し、燃料などを奪って退去するというフェートン号事件が起こった。このとき、長崎奉行松平康英は責任をとって自決した。その後、オランダは1810年にフランスに併合され国家は一時消滅(1815年に復活)したが、出島のオランダ商館はそのことを幕府に知らせず、依然としてオランダ国旗を掲げていた。その時点でオランダ国旗を掲げていたのはこの長崎出島だけだったという。しかし、バタヴィアなどオランダ植民地がイギリスに占領されたため、その間長崎貿易も行われなかった。→ 日本とオランダ

中国との貿易

 長崎には早くから中国船が来航していたが、幕府は1635年にはその入港も長崎一港に限定した。鄭成功が派遣する中国船はオランダ船と競い合う関係にあり、しばしば対立した。1644年に清朝が中国を統一すると、清朝政府は鄭氏台湾の活動を抑えるため1661年に遷界令を出した。そのため、一時中国との取引は停滞したが、1683年に鄭氏台湾が降服し、海禁が撤回されたので中国船の来航も急増した。彼等は直接に中国産生糸をもたらすのでオランダ商人を次第に圧倒し、長崎でも中国船の入港の方が多くなり、生糸のほかに絹織物・砂糖を輸入し、日本からは金・銀・銅が輸出された。特に中国で不足していた銅が輸出品の中心となったため、日本からの銅の流出が問題になった。そこで長崎貿易での銅の輸出が制限されるようになり、代わって蝦夷地からの海産物である煎りりナマコ・干しアワビ・フカヒレの俵物が輸出の中心とされるようになる。なお、唐人屋敷では唐通詞を通して、唐船風説書が作成され、幕府に提出されていた。
 なお、唐船というのは三種類あった。・口船と言われる長崎に最も近い江蘇省・浙江省からくる南京船、寧波船、乍浦(さほ)船など。・中奥船と言われる福建省の福州、泉州、厦門、台湾など、広東省の潮州、広東、海南など。・奥船と言われるベトナムからの東京(とんきん)船、安南船、占城船のほか、カンボジア、マレー半島のパタニ、ジャワのバタヴィア(カラパ船)、タイのシャム船などから来た。ただしこれらの船はいずれも中国商人か華僑の所有のジャンク船であった。最高記録では1688年の1年に193隻が入港したが通常は50隻前後であった。

長崎の唐人屋敷

 また比較的布教が自由だった中国からのカトリック宣教師の潜入も懸念されたため、幕府は1688年に長崎に唐人屋敷を設けて、中国人を収容して密輸を取り締まった。唐人屋敷または唐館は長崎の中心部より南の町屋を取り除いて新たに造成され、約3万平方kmの広さ(出島の約2倍)があった。まわりを外壁で囲んで外界と遮断され、出島のオランダ商人と同じように隔離し、唐通詞といわれた通訳や役人、公認された商人と遊女以外の出入りは禁止された。しかし、次第に屋敷の修理や食料品の提供などでかなり自由に日本人も出入りし、唐人も長崎の町を自由に歩いていたようであって、肉食である中国人に野牛や猪の肉を売ったり、屋敷の中でも豚が飼われていた。これらの家畜を飼育したり、加工する仕事には被差別民があたったが、彼等は隠れキリシタンだったという。オランダ人に比べて比較的自由に長崎の町民と接触できたからか、長崎には中国文化の影響が色濃く残ることとなった。有名な「長崎くんち」(諏訪神社の秋の大祭)の蛇踊りや長崎港のペーロン競漕などにその伝承を見ることができる。
 長崎の唐人屋敷は開国と共にその役目を終え、中国人商人も市内で自由に居住、活動できるようになった。1870年1月の大火で屋敷一帯は焼失し、現在ではまったくその面影を残していない。現在、中華街として知られているのは、新地の倉庫街であったところである。そして開国後に新たに外国人居住地として設けられたのが、グラバー亭などで知られる一角である。<中国との貿易、唐人屋敷については、横山宏章『長崎唐人屋敷の謎』2011 集英社新書などを参照>

Episode 唐人屋敷へトンネル掘り

 長崎の出島と唐人屋敷での貿易は厳重に監視されていたが、それでも抜荷(密貿易)が絶えなかった。長崎奉行の記録『犯科帳』には抜荷に関する裁判記録が多数残されている。抜荷にはさまざまな方法が採られ、唐船・蘭船に泳ぎ着こうとしたものや、出島・唐人屋敷に出入りの通詞や遊女、番人、屋敷や船を修理する職人などの手を通じて行われた。森永種夫著の『犯科帳』(岩波新書)にはいろいろな抜荷の手法とそれに対する処罰の記録が載せられているが、その中から安永8年(1779年)の唐人屋敷にトンネルを掘った話を紹介しよう。
 遠見番の孫之進は仲間の唐小通詞らと唐人屋敷からの抜荷をもくろんだ。孫之進の家は唐人屋敷から目と鼻の先だったので、一味はその床下から穴を掘り続け、ついに屋敷に通じ、まず手始めに煎ナマコを持ち込んで唐人の玉子形麝香と交換することに成功した。ところがその麝香は偽物で、一杯食わされたことがわかった。女房のおらくに諫められた孫之進は、一旦穴を埋め戻したが、穴掘りの魅力を忘れられずに矢もたてもたまらなくなった。穴を再び掘り明け、こんどは煎ナマコ・干アワビなどを持ち込み、白砂糖・くり盆・茶碗などを代物替えし、売り捌いた。事件は発覚し、孫之進は引き回しの上獄門、他は壱岐島への流罪となった。<森永種夫『犯科帳』1962 岩波新書 p.40>

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書籍案内
原田伴彦
『長崎―歴史の旅への招待』
1964 中公新書
森永種夫
『犯科帳―長崎奉行の記録』
1962 岩波新書

横山宏章
『長崎唐人屋敷の謎』
2011 集英社新書

松方冬子
『オランダ風説書』
2010 中公新書