アダム=シャール/湯若望
ドイツ人のイエズス会員、明末清初に中国布教に従事。西洋暦法により時憲暦を作る。中国名は湯若望。

アダム=シャール
中国暦法と西洋暦法
暦づくりは皇帝つまり天子の重要な任務と考えられていたので、中国の歴代王朝はそれぞれ暦法の採用には重大な関心を持っていた。元では郭守敬がイスラーム暦を参考に授時暦を作り、明朝はそれを受けて大統暦を制定し、朝貢国にも頒布して使用させ、その権威を示していた。ところが明も後半になってくると、この大統暦にも狂いが生じ始めたにもかかわらず、天文関係の官職は世襲化しており、暦の改正には不熱心であったので、暦日と現実の気候のずれが大きくなってしまった。アダム=シャールは弟子の徐光啓らと共に暦法の改定を提案、崇禎二年に中国伝来の暦法と西洋暦法のいずれが正しいか、暦法の技術試合が行われた。その結果、アダム=シャールが勝ち、明朝も漸くその改定に着手することになったが、完成する前に明朝が滅亡してしまった。
時憲暦の制定 1644年、北京に入城した清の摂政ドルゴンは、明に代わって正確な暦を制定することによって王朝支配の正当性を示そうと考え、宣教師アダム=シャールに目を付けた。8月1日が日食にあたっていたので、北京の看象台(天文台)でふたたび技術比べが行われ、このときも大統暦もイスラーム暦もみな時刻が狂い、アダム=シャールの新法だけが見事にその正確さが証明された。ドルゴンはその新暦法を「時憲暦」として1645年から実施することにした。そして順治帝の北京入りをまち、同年11月にアダム=シャールは天文台長に任命された。
(引用)この神父登用事件は、また、清朝君主が時代に鋭敏な、進歩的性格の持ち主であったことを示すものと言える。その点、保守退嬰的な明の君主とまさに対照的といえるだろう。ただそれが、独走に終わるところに悲劇があった。はたしてこの紅毛の天文台長も、順治帝が死ぬと、康煕帝の幼年の時期をねらって出てきた保守派の満漢人官僚に讒言されて、投獄のあげく憂死する悲運にみまわれた。<三田村泰助『明と清』世界の歴史14 河出文庫 p.292>
Episode 命がけの日蝕観測
即位したばかりの康煕帝に対し、キリスト教は清朝を滅ぼす邪教であり、宣教師が作る暦は誤りである、と訴えたのは、安徽省の楊光先だった。1664年、楊の訴えは採択され、宣教師たちへの尋問が始まった。このとき74歳だったアダム=シャールは、中風のために立つこともままならず、言葉も不自由だったので、フェルビースト(南懐仁)が通訳した。過酷な尋問の結果宣、教師たちは投獄され、西洋暦法を支持していた5名の天文官が処刑された。清朝は楊光先を欽天監正(天文台長官)に任命して暦の作り替えを命じ、1665年、シャールにも死刑が宣告された。1665年1月16日に、日蝕があることが予測されていた。宣教師に対する尋問が始まる6ヶ月前、中風で観測ができないアダム=シャールに代わってフェルビーストは日蝕の始まる時間を詳細に推計し、シャールの名で礼部に報告していた。陽光先もムスリムの天文学者に日蝕開始時間を推計させた。日蝕が予測された日、フェルビーストは北京の天文台に連行され、三本の鎖がつけられたままの手で、天文観測の準備を進めた。北風が吹き付ける中、病に冒されたシャールがその横に立たされた。皇帝の命令で集められた多くの官僚が見守るなか、日蝕が開始する時間がせまってきた。まず楊がわの天文官が、あと15分で始まると叫んだ。しかし、指定した時間が過ぎても、太陽に変化は現れなかった。
二人の官員が「さあ、湯(シャール)、マファ(シャールに対する満洲属の尊称)の時間だ」と告げた。そのとき、用意された紙片の上の太陽図の上辺に、小さな爪のような影が現れた。蝕の始まりである。宣教師は楊よりも正しい推算を出していたことが、この時証明されたのである。宣教師たちに対する刑の執行は、停止された。しかしシャールは獄中生活のために病を悪化させ、一年後に死去した。
中国で暦獄とよぶこの事件で、シャールに死刑が宣告され、フェルビーストにむち打ちの刑が宣告されると、たまたま北京で地震が発生したたため、刑の執行は停止された。また康熙帝が1667年、親政を始めると、彼はフェルビーストと旧暦法家に競争事件を行わせたたところ、西洋暦法が完璧な勝利を収めた。その結果、清朝の公暦は再びフェルビーストらによって作成されることになり、1669年には公開観測で西洋暦法の正しさが認められると楊の地位は剥奪されフェルビーストが欽天監副に任命された。<上田 信『海と帝国 明清時代』中国の歴史9 講談社学術文庫 初刊2005 再刊2021 p.358-363>
康熙帝は西洋科学に対する関心が高く、宣教師から数学を学ぶほどだった。宣教師もその期待に応え、ネルチンスク条約締結に向けたロシアとの交渉などで活躍した。しかし、キリスト教の布教や教会の建設は禁止されていた。18世紀には典礼問題からイエズス会が追放され、宣教師の活動は天文学や兵器製造などの実用的知識に限られていく。、