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セリム1世

16世紀初めのオスマン帝国スルタン。チャルディランの戦いでサファヴィー朝を破り、さらにマムルーク朝を滅ぼしエジプトなどを領有した。

 オスマン帝国第9代スルタン(在位1512~1520年)。「冷酷者」といわれる。イランを統一したシーア派のサファヴィー朝の勢力がアナトリアに及んできて脅威となると、領内のシーア派に対する大弾圧を行い、さらに自ら大軍を率いて東征し、1514年、タブリーズ西北のチャルディランの戦いサファヴィー朝イスマーイール1世を破り、その勢力をイラン高原に押し戻した。

マムルーク朝を滅ぼす

 ついでシリアとエジプトを領有し、アッバース朝カリフの後継者を擁して聖地メッカとメディナの管理権を持っていたマムルーク朝との対決姿勢を強め、1516年に遠征軍を起こし、マルジュ=ダービクの戦いで、鉄砲・大砲を有効に使い、従来型の騎兵戦術をとるマムルーク軍を破って、ダマスクスに入った。さらに同年エジプトに入り、カイロ東北方のリダニヤの戦いで勝利し、カイロに突入、1517年にマムルーク朝を滅ぼした。この勝利によってオスマン帝国は、シリア・エジプトの交易ルートを抑え、東西交易のすべてのルートを抑えることとなった。マムルーク朝滅亡の時、カイロに滞在したセリム1世のもとに、ヒジャーズの実力者でムハンマドの直系子孫とされていたシャリーフから聖地メッカメディナの町の鍵が届けられ、セリム1世はこの二聖都の保護者となった。

参考 カリフの地位継承という説

 なおこの時、マムルーク朝に亡命していたかつてのアッバース朝のカリフの継承者からその地位を譲られ、オスマン帝国のスルタンがカリフの地位を兼ねることになったのが、スルタン=カリフ制の根拠とされていた。
 しかし、現在の研究によって、このような歴史事実は無かったとされるようになっており、18世紀にオスマン帝国の君主の地位が動揺した時期に、権威を教化するために創作されたにすぎないとされるようになった。
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