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コルテス

16世紀初頭のスペインの征服者。1521年にメキシコ高原のテノチティトランを征服、アステカ帝国を滅ぼした。

 スペイン人のコンキスタドール(征服者)の一人で、1521年アステカ王国(現在のメキシコ)を征服した人物。スペイン国王カルロス1世の時代、キューバ総督ベラスケスの秘書であったが、その命を受けて大陸にあるアステカ人の征服に向かった。1519年、メキシコに上陸、現在のベラクルス(真実の十字架)を最初の植民都市として建設し、拠点とした。そこから内陸のアステカ王国の首都テノチティトランに進撃した。

征服の開始

コルテスは「劇的効果を狙った深謀遠慮を以て乗ってきた船を悉く焼き払って背水の陣を敷き、8月の半ばに僅か400人のスペイン歩兵を率いて未知の大敵に挑むべく壮途に就いた。」まず好戦的なアステカ人の宿敵であるトラスカラ人と3度にわたって戦ってそれを屈服させて味方につけた。トラスカラ人はこの時以来、スペインの征服者たちの忠実な友人となった。「彼らの助力なしには、コルテスは決してモンテスマの帝国を打倒できなかったと言ってよい。」<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.119-121>
 この間、コルテスの率いるスペインの遠征軍は、抵抗するインディオを排除しながら進撃したが、その過程での虐殺行為は同時代の宣教師ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』によって告発されている。

Episode チョルーラの虐殺

(引用)スペイン人たちが行った数々の虐殺の中で、とりわけ有名なのは3万人以上の人々が暮らしていたチョルーラという大きな町で行なわれたものである。チョルーラおよびその周囲の(インディオの)領主たちはみな、大神官が率いる神官全員の行列を先頭にして、丁重に、しかも、恭しくキリスト教徒たちを出迎えた。・・・スペイン人たちはその場で彼らを虐殺、(スペイン人の言葉を借りれば)懲らしめようと心に決めた。」司令官(カピタン)のコルテスは、荷担ぎ人足という口実で5000~6000のインディオを邸の中庭に集め、恥部を皮で覆い隠しただけのほとんど裸同然で子羊のようにじっと屈んでいるだけの彼らに対し、スペイン人たちに襲いかかるよう命令した。インディオが突き殺されていく間、司令官(コルテス)は「ネロはタルピアの丘より炎に包まれているローマの光景を眺める。老いも若きもみな救いを求めて泣き叫ぶ。だが、ネロはいささかの憐れみの情も抱かない」と口ずさんでいたそうである。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.62-65>

奸計でモンテスマ王(モクテスマ2世)を捕らえる

 同年11月初めに都テノチティトランに到着、湖の上に築かれた壮大な都市を見て兵士は仰天する。当時アステカ王国はモンテスマ(モクテスマ)王が治めていたが、王はコルテス一行を平和裡に迎え、歓呼の声で市内に入った。しかしコルテスは、奸計を以て王の身柄を抑え、スペイン兵の監視下に置き、全土から莫大な量の金銀の細工品を集めさせた。<ペンローズ p.122>

Episode 囚われの王

(引用)(都テノチティトランでは)町の入口には、モテンスマ王がみずから金の輿に乗り、多くの廷臣を従えてキリスト教徒の到着を待っていた。王はキリスト教徒たちの宿と定めた宮殿まで彼らに随行した。その場に居合わせた数人のの者が私に語ったところに依れば、その日、スペイン人たちは安心していた偉大な王モテンスマを欺いて捕らえ、80人の部下を配して王を監視し、そののち、王に足枷をはめた。」インディオたちは囚われの王の心を慰めようと、みな盛装し、宝物を持ち出して身につけ、祭りに興じた。「それはインディオたちにとりこのうえなく楽しい最高の祭宴であった。貴族や王家の人びとはそれぞれの位階に従って王が囚われている邸のすぐ近くで踊り廻り、宴を催した。・・・司令官(コルテス)は・・・スペイン人を率いてインディオたちの所へ行った。スペイン人たちは祭りを見に行く振りをして、それぞれの持場へ向った。彼はあらかじめ打ち合わせた時期が来れば、総攻撃をかけるよう彼らに命じた。インディオたちが泥酔し、踊りに無我夢中になっていた頃、彼は「突撃(サンティアーゴ)!」と鬨の声を上げた。スペイン人は白刃を振りかざしてインディオたちに襲いかかった。彼らは裸同然の華奢なインディオたちの体を斬り刻み、その清らかな血を流しはじめた。結局、彼らはひとり残らずインディオたちを殺害した。<ラス=カサス p.65-67>

インディオの反撃

 コルテスは上官であるキューバ総督ディエゴ=ベラスケスの命令に背いて独断的にメキシコ征服に赴いたため、1520年春、ベラスケスはコルテス追討の一隊を派遣した。コルテスはいったんテノチティトランを離れ、追討軍を迎え撃って勝ち、追討軍のスペイン兵を合流させて都に戻った。ところが都ではアステカ人全体がスペイン人に対する暴動を起こしていた。民衆を鎮めるためにコルテスはモンテスマの姿を臣民に見せた。ところが、自分はスペイン人の友人であるとその統治者モンテスマが宣言した時、激昂した暴徒の投げた石がその頭に当たり、この気の毒な王はどんな治療も拒否して、間もなく死んでしまった。<ペンローズ p.122>

Episode 民衆、王を見限る

(引用)町中のインディオたちは、多くの罪けがれのない人びとにかつて見たこともない不正で残酷な行為がなされたのを目にして、ついに全員武装し、彼らに襲いかかった。インディオたちは、彼ら全体の王がそれに劣らず不正にも捕らえられたのをそのままじっと我慢していたが、それは、王が彼らにキリスト教徒たちを攻撃しないよう、また、戦いをしないよう命じていたからにほかならない。スペイン人たちの多くは傷つき、やっとの思いで逃げのびた。俘囚のモテンスマ王は胸に短剣を突きつけられ、仕方なく廻廊へ出てインディオたちに向かって邸を攻撃しないで、武器を捨てるように命じた。しかし、もはやインディオたちは王の命令に従う気など毛頭なく、それどころか、彼らは別の王、つまり、スペイン人たちとの戦い指揮する部将を撰ぼうと話し合ていたのである。<ラス=カサス p.67-68>

コルテス、テノチティトランを撤退

 モンテスマの死はコルテスにとって手痛い誤算となった。彼を喪っては、全市を敵に回して孤立した侵略者の一団に残された路は只一つ、一刻も早く逃げ出すことしかなかった。この脱出行は莫大な損害を被りつつ遂行された軍事史上最も困難な作戦の一つであった。西側堤道を本土へ向けて突破する夜間行軍では、スペイン人とその同盟者トラスカラ人は1フィートごとに猛り狂った敵の包囲攻撃を受けた。この夜(1520年6月30日)は余りにも凄惨を極めたたため、以後長く《ノーチェ・トリステ》(悲嘆の夜)として知られる。<ペンローズ p.122>

Episode 「悲しき夜(ノーチェ・トリステ)」

(引用)司令官(コルテス)が町へはいるとすぐ、領土一帯に住む無数のインディオは集結し、何日間も激しくキリスト教徒たちに総攻撃をかけた。とうとうキリスト教徒たちは皆殺しの目に会うのではないかと不安になり、ある夜、町から脱出することになった。インディオたちはそれに気付いて、湖の橋の上で大勢のキリスト教徒を殺害した。・・・彼らの行ったその戦いはきわめて正当であり、神聖であった。・・・しばらくして、キリスト教徒たちは態勢を立て直し、ふたたび町で干戈が交えられた。その時、数限りないインディオが殺され、多くの偉大な領主が火あぶりにされ、驚くべき前代未聞の害が加えられた。その甚だしい、また、忌まわしい暴虐の結果、メキシコの町とそれに近接する町々および地方一帯が全滅してしまったのである。<ラス=カサス p.67-68>

コルテス、テノチティトラン再征服

 1521年春、新鋭の増援部隊及びトラスカラ人戦士の大軍と共にスペイン軍は再びテノチティトランへ進撃、5月~8月に総攻撃をしかけ、「湖岸の各処で造った戦闘用舟艇の巧妙な使用によって侵略者達はアステカ民衆の勇敢な防戦を圧倒し去り、首都陥落と共にアステカ全土の組織的抵抗は終熄した。コルテスはその同盟軍に感謝して一人のトラスカラ人も奴隷に売ることを許さず、皇帝カール5世を説いて進貢の義務を永代免除してやった。<ペンローズ p.122> → アステカ王国の滅亡

Episode コルテス、火砲と火薬を自給

 コルテスの成功は火砲火薬によってもたらされたが、新大陸には鉄器はなく、火薬の原料も手に入らなかったので、まもなくその不足に悩まされるようになった。総督ベラスケスと本国の植民省長官はコルテスの成功をねたみ、知らん顔でほっておくことにした。やむなくコルテスはなんとか自前で調達しなければならなくなった。まず大砲の砲身にはインディオが青銅を作っているのを見て、銅とスズを手に入れ、鋳物工場をたてて大砲30門を作った。砲弾は鉄が手に入らないので石で代用した。火薬はどうしたか。火薬には木炭とイオウと硝石が必要だ。木炭は大きな炭窯を付くって容易に作ることができ、硝石もメキシコの原野や洞窟ですぐに見つかって、天然に産するものを使うことができる。残るイオウを求めていると、あるときインディオがポポカトペトルと呼んで近づこうとしない山があることを知った。探検隊を派遣するとそれは高い頂から煙を吐く火山だった。1521年、コルテスは命知らずの兵隊を募り、火口から籠に乗って降りた兵士が火口壁からイオウを掻き取った。このときコルテスのもとに約150kgのイオウがもたらされ、それをもとに約2000kgの火薬を作ることができた。<サトクリフ/市場泰男訳『エピソード科学史』Ⅰ化学編 1971 現代教養文庫 p.60-68> → 火薬の項を参照

Episode 征服者の現地妻

 アステカ王国を征服したコルテスは、メキシコ湾岸のタバスコ地方でインディオ軍をやぶったときに敵の首長より贈られた女奴隷の中からマヤ語とナワトル語(アステカ族の言語)を理解する一人の女性を身近に置き、通訳として使った。そしてコルテスは、マリンチェと呼ばれたこの女性との間に長男マルティンをもうけている。<国本伊代編『概説ラテンアメリカ史』新評論 p.80>
 新世界に渡った人々はほとんど男性で、白人女性が極端に少なかったこともあり、自然に白人とインディオの混血が始まった。コルテス自身がその先鞭を付けたのだった。コルテス以後の新大陸の征服者たちは、盛んに混血を推奨したが、次第にその数が多くなると、メスティーソ(白人とインディオの混血)、ムラート(白人と黒人の混血)を白人の下に置く人種別の身分制社会を作って統治するようになる。

コルテスのその後

 コルテスは、1523年、国王カルロス1世(カール5世)からヌエバ(ノヴァ)=イスパニア(メキシコ)総督に任命され、副将アルバラードにグアテマラ征服を命じ、さらにオリードをホンジェラスに派遣した。しかし、オリードが反旗を翻すなどの事件があって免職され、26年に一時スペインに帰国した。その後ノヴァ=イスパニアにもどり、1533年には太平洋岸を北上し、彼の派遣した艦隊がカリフォルニアを発見、1536年には自ら航海に参加してカリフォルニア半島の南東部にラ・パスの町を建設した。1540年、スペインに帰国してからは不遇であった。
 コルテスの征服者としての成功体験は、約10年後のピサロによるインカ帝国の滅亡にも生かされていた。あるときピサロが先輩コルテスにインディオとの戦いのコツを聞いたところ、コルテスはまず王を殺すことだ、そうするとインディオは抵抗しなくなる、と教えたという。
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書籍案内

ボイス・ペンローズ
荒尾克己訳
『大航海時代』
2020 ちくま学芸文庫

ラス=カサス/染田秀藤訳
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』
2013 岩波文庫

安村直己
『コルテスとピサロ
遍歴と定住のはざまで生きた征服』
世界史リブレット 人
2016 山川出版社