印刷 | 通常画面に戻る |

植民地分界線

15世紀末、ポルトガルとスペインが支配地域を分割して設けた線に始まる。それ以後、ヨーロッパ列強による植民地分割が行われた。

 ポルトガルが先鞭をつけ、スペインがそれに続いた新航路と新世界の発見によって、この二つの絶対王制国家による「世界分割」が行われることとなった。早くもコロンブスのカリブ海域到達の翌年の1493年、スペインの要請によってローマ教皇が裁定し、教皇子午線(教皇境界線)が設定され、その東をポルトガル、西をスペインが領有することが認められた。それに不満なポルトガルは翌1494年年、直接交渉してトルデシリャス条約を結び、境界線を西にずらした。15世紀末、いち早く絶対王政を成立させた二国が、ローマ教皇の権威のもと、世界分割を行ったと言うことになる。
 さらに両国の世界分割は、アジアにも及び、1529年サラゴサ条約で日本を東西に分割する線が定められ、これによって地球は両国によって分割されたことになる。
 それにしても、まだ見つかってもいない陸地を、勝手に分割してしまう、それもローマ教皇の名において、というのは現代から見ればずいぶんとひどい話です。もっとも16世紀にはいると宗教改革の嵐が吹き始め、ローマ教皇の権威は揺らいでゆき、イギリスとオランダという新教国である新興勢力ががトルデシリャス条約やサラゴサ条約に関係なく新大陸とアジアに割り込んでくることになるわけです。 → 植民地
印 刷
印刷画面へ