ヴォルムス帝国議会/ヴォルムス勅令
ヴォルムス帝国議会は1495年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の国政改造で設置された身分制議会。1521年、カール5世がルターをこの議会に喚問した。このとき、カール5世はルターが自説の撤回を拒否したので、異端と断定し、ルターを追放するヴォルムス勅令に署名した。
神聖ローマ帝国の帝国議会
ヴォルムスはライン左岸にあるドイツの都市で、1122年に叙任権闘争の宗教和議であるヴォルムス協約が成立したところとして知られる。帝国議会とは、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世が、1495年に、前年に始まったフランス王シャルル8世とのイタリア戦争の戦費調達のために、帝国内の諸侯や都市の協力を得ようとして召集し、以後、帝国の基幹となる会議として毎年開催されることになっていた。すべての帝国直属諸侯が出席権を持ち、選帝侯部会、諸侯部会、都市部会の三部会からなる身分制議会であった。1495年の帝国議会では、永久ラント平和令の制定、帝国最高法院の設置など、神聖ローマ帝国の国政が整備された。帝国議会の設置は最も重要な改革であり、以後定期的に開催され、神聖ローマ帝国が中世的な封建国家から脱して、近世的な主権国家に向かうこととなった。しかし、イギリス、フランスとは違い、市民革命を経ることがなかったので、近代的主権国家への歩みは最も遅れることとなった。 → 後の1870年代、ドイツ帝国が成立してからのドイツ議会も帝国議会と言うので区別すること。
1521年、カール5世による帝国議会招集
1521年4月17日、神聖ローマ帝国皇帝カール5世がヴォルムス帝国議会を召集し、ルターを召喚して1517年の『九十五ヶ条の論題』でのローマ教皇批判の撤回を迫った。その背景には、宗教改革に乗り出したルターの主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受けいれられて、ルター派の勢力は急速に拡大したことにカール5世が脅威を感じたことが挙げられる。1519年、神聖ローマ帝国皇帝選挙をフランス王フランソワ1世と争って皇帝となったカール5世は、ドイツの各領邦、諸侯、高位聖職者の支持を確保する必要があり、当時ドイツ各地で問題となっていたルター派と教会の対立を調停する必要に迫られていたのだった。
そこで、ウォルムス帝国議会を招集して新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターを喚問し、その教説の撤回を迫った。ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し最後に「ここにわたしは立つ」と言ったという。議会はルターを異端と断定して追放し、その著作の販売・購読を禁止する決定を行い、それはカール5世の名によってヴォルムス勅令として発布された。
ヴォルムス勅令
1521年5月26日、ヴォルムス帝国議会において、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が署名し、発効した勅令(皇帝の命令)。ルターを異端者であるとして断定し、帝国の保護外に追放し、その著書の販売・購読を禁止した。これによってカトリック教会と神聖ローマ帝国皇帝はともにルターを明確に弾圧する態度を取ることとなり、ルターおよびルターを支持した諸侯や農民との間での宗教対立は宗教戦争へと突入していく。ウォルムス勅令以後の推移
ルターの脱出 ルターはウォルムスを密かに脱出し、ザクセン選帝侯フリードリヒによってヴァルトブルク城かくまわれ、そこで聖書のドイツ語訳などの活動を続けることとなる。ドイツ農民戦争 それにたいしてルター派の抵抗はかえって激しくなり、1524年にはドイツ農民戦争が勃発した。また、カール5世はそのころフランス王フランソワ1世とのイタリア戦争、オスマン帝国のスレイマン1世の侵攻にも悩まされていたので、ルター派を容認して国内を安定させる必要があった。
シュパイアー帝国議会 そこで1526年にシュパイアー帝国議会(第1回)を召集してルター派の信仰を認めた。ほぼ同時にモハッチの戦いでスレイマン1世のオスマン帝国軍が、ハンガリーを征服し、カール5世の不安は現実のものとなった。
ヴォルムス勅令の復活 しかし、一方のイタリア戦争で優位を確保したカール5世は、再びルター派否認に転じ、1529年の第2回シュパイアー帝国議会ではヴォルムス勅令を復活させた。それに対してルター派は抗議文を提出し、そこからプロテスタントといわれるようになった。
シュマルカルデン戦争 こうしてルター派は新教徒=プロテスタントとして明確な勢力となり、その後、シュマルカルデン戦争という宗教戦争を戦っていくこととなり、ようやく1555年のアウクスブルクの和議でその信仰の自由(といっても領主クラスにとどまったが)が認められた。なお、一般大衆の信仰の自由が保障されるのはさらに後の17世紀の三十年戦争後のウェストファリア条約によってである。