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カルヴァン

ルターの聖書主義、ツヴィングリの福音主義などの影響を受け、1540年代にスイスのジュネーヴで宗教改革を実践、改革派を指導した。その教えはフランス、オランダ、イギリスなどに広がり、特にその信条の「予定説」はプロテスタンの理論となり、さらにヨーロッパ資本主義社会に影響を与えたと言われている。

カルヴァン
Calvin(1509-1564)
 ドイツのルターと並ぶ宗教改革の中心となった人物。カルヴァンは北フランスのピカルディの生まれ、パリ大学で学んで神学を修め、次にオルレアン大学に行き法律を学んだ。そこでエラスムスに傾倒し、人文学者となった。1530年代のフランスにはルター派の著作とその思想がもたらされ、カルヴァンもその影響を受けた。

スイスに逃れ宗教改革を開始

 パリで新教徒迫害が強まったため、カルヴァンはスイスのバーゼルに逃れて、1536年に『キリスト教綱要』を著し発表した。それによって新教派の論客として注目されるようになり、同年からジュネーヴでファレルとともに改革を実行し始める。

ジュネーヴで神権政治

 ジュネーヴでは、はじめは反対派が多く、一時追放されたりしたが、1541年から14年にわたり市政の実権を握り、いわゆる神権政治という厳格な教会改革と政治改革を実行した。彼は反対派を捕らえて火刑にするなど厳しい宗教統制を行った。1559年には「ジュネーヴ学院」を設立し、改革理念を学んだ青年を育て、布教者としてフランスに派遣し、カトリック教会批判を展開、一般には改革派(日本ではカルヴァン派ともいう)の拡大に努めた。しかし、カトリック教会からは激しく攻撃を受け、彼自身も病気を抱えていたためにその活動は苦難をきわめ、1564年に病没した。

カルヴァンの予定説

 カルヴァンの思想は、ルターの聖書中心主義とともに、スイスの宗教改革者ツヴィングリ福音主義を発展させ、またエラスムス人文主義の影響を受けていたが、その最も独自性の強い主張は予定説といわれる宗教理論であった。予定説とは、すべての物事は神の業(わざ)であるという考えを突き詰め、人の救済も(その人の信仰の努力ではなく)神によって予(あらかじ)め定められている、という信条であり、人は神からあたえられた現世の職業を含めたすべてに対して誠実に生きることを説いたものであった。このカルヴァンの思想は、西ヨーロッパの商工業者に広がり、資本主義社会の形成の背景となったと言われている。 → マックス=ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ジュネーヴでの神政政治

 カルヴァンは、エラスムスなどユマニスムの影響を受けて、はじめは反対派に対しても寛容な姿勢であったが、1541年にジュネーヴで権力を握り、厳格な神権政治を実行していくうちに、次第に非寛容の姿勢が強くなった。カトリック教会を厳しく弾劾しただけではなく、たとえばミシェル=セルヴェという神学者が、三位一体説を批判する説を発表すると、異端説であるとして弾圧してセルヴェを宗教裁判にかけ、処刑してしまった。また人文学者に対しても神を冒涜する言説については激しい非難を加え、ラブレーの著作なども禁書にした。それだけではなくカルヴァンは市民生活にも厳しい規律を求め、違反者を次々と捕らえて裁判にかけ、恐怖政治として恐れられた。
 カルヴァンによって犯罪として告発された事件には次のような事例があった。・放浪者に占いをしてもらった事件 ・ダンスをした事件 ・25歳の男と結婚しようとした70歳の女性の事件 ・ローマ教皇を立派な人だと言った事件 ・礼拝中に騒いだ事件 ・説教中に笑った事件 ・カルヴァンを風刺した歌を歌った事件など。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.270>
 カルヴァンがジュネーヴでの最後の仕事となったのは大学創設であった。1559年、テオドール=ベースを学長として迎えて創建された「ジュネーヴ学院」は、ヨーロッパ各地から若者を集め、福音主義の兵士として鍛え上げて送り出し、ヨーロッパのキリスト教改革派の原動力となった。

Episode 誰も知らないカルヴァンの墓

 カルヴァンは胃弱、偏頭痛、神経痛、結石、肺結核など多くの病気を抱え込んでいた。「絶えざる死にも似ている」病気と戦いながら、信仰上の敵との論争に明け暮れた生涯であった。愚弄と憎しみをもって立ちむかってくる信仰上の敵に対しては、己の使命とは相容れない者として追求し、徹底して冷酷に立ちむかった。その反面、かれを慕って集まってくる心を慰められることもあったが、つねに怒りと自責が交錯し、決して円満柔和ではなかった。
(引用)1559年喀血したカルヴァンは急に衰弱し、64年の2月にはもはや歩行にたえられないありさまとなり、椅子で運ばれて行った説教がこの世における彼の最後の言葉となった。5月22日、後事をベーズに託してカルヴァンの肉体はようやく苦しい務めから解放された。時に55歳、共同墓地に葬られ、遺言によって墓碑も立てられなかったので今はその所を知る人もいない。<半田元夫・今野国雄『キリスト教史Ⅱ』1977 世界宗教史叢書2 山川出版社 p.113>
 カルヴァンは、自分の教えそのものは自分が造り出したのではなく、聖書そのもの、つまりイエス=キリストの教えを敷衍しているに過ぎないと考えていたから、その教えを「カルヴァン主義」、それを支持する人々を「カルヴァン派」と言われることを嫌がり、否定していた。だからその死に当たっても自分が教祖扱いされてはならないと考え、弟子たちに墓碑を建てることを禁じたのだった。そのため、今でもカルヴァンの墓を知る人は誰もいないのだ。

カルヴァンの教えの広がり

 1564年にカルヴァンは死去したが、ジュネーヴはその信仰の拠点として多くの後継者が育っていた。彼らによってその教えはヨーロッパに広がっていった。カルヴァン自身が新しい宗派を創始するとは考えていなかったので、ルターの教えがルター派といわれ、ドイツから北ヨーロッパに広がって言ったのに対し、カルヴァンの教えは当時は改革派の一派と考えられ、フランスではユグノー、オランダではゴイセン(ヘーゼン)、スコットランドでは長老派(プレスビテリアン)、イングランドでは清教徒(ピューリタン )などと呼ばれた。現在の日本の世界史教科書では一般にカルヴァン派と言われるが、キリスト教の宗派の中にはルター派の教団組織はあるが「カルヴァン派」というのは存在しない。
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書籍案内

渡辺一夫
『フランス・ルネサンスの人々』
岩波文庫

渡辺信夫
『カルヴァン』
Century Books―人と思想
1984 清水書院