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シャン=ド=マルスの虐殺

1791年7月、王政廃止を訴える民衆を立憲王政派が弾圧した事件。

 フランス革命の過程で1791年の6月のルイ16世の国外逃亡未遂事件、いわゆるヴァレンヌ逃亡事件が起こると、民衆の中に王政廃止・共和政樹立を要求する声が強まった。7月には共和政の実現を掲げるコルドリエ=クラブが結成され、彼らが民衆を指導して、1791年7月17日にパリの民衆がシャン=ド=マルスの広場での共和政実施の請願署名に集まった。パリ市長バイイは国民衛兵司令官ラ=ファイエットとともに弾圧を決意、国民議会(多数派は立憲君主政を志向するバルナーヴらフイヤン派が占めていた)の了解を取り、国民衛兵が無警告で民衆に発砲した。それによって約50人が殺害され、さらに300人が逮捕された。首謀者は投獄され、共和派の集会と新聞発行は禁止された。
 このようにこの事件は、バルナーヴ、ラ=ファイエットら立憲君主派(フイヤン派)による急進的共和派に対する弾圧事件であった。立憲君主派は王党派と妥協してフランス革命を立憲君主政の成立をもって終わらせようとしたのだった。その仕上げを急いだ立憲君主派は国民議会で9月に「1791年憲法」を成立させた。しかし、革命干渉軍が迫る中、次の立法議会では穏健共和派ジロンド派や急進的共和派ジャコバン派が台頭し、またルイ16世も立憲君主政を守ることができず、革命はさらに進展していくこととなる。
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