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フイヤン派

1791年、ジャコバン=クラブから分離して立憲君主政を主張したバルナーヴらの一派。

 国王のヴァレンヌ逃亡事件の後、1791年7月、ジャコバン=クラブは共和政問題で分裂した。共和政を主張するジロンド派に対し、立憲君主政の維持をはかる多数派が脱退した。彼らはフイヤン派修道院の中に別なクラブをつくったのでフイヤン派と言われた。脱退したのはバルナーヴ、デュポール、ラメット兄弟らの三頭派とも言われる人びと。かれらは先にジャコバン=クラブを離れた1789年クラブの面々、ラ=ファイエットらと合流してフイヤン=クラブをつくった。
 かれらは共和政を要求する勢力に対し、合同して議会内多数派を形成して国王の受け皿を築き、立憲王政の憲法として1791年憲法を成立させた。この憲法の下で成立した立法議会では体制維持を図る保守派として、ジロンド派と対立した。翌1792年ジロンド派が主導する対オーストリア戦争が始まったが、戦況が思わしくなくフランス軍が各地で敗れたためジロンド派政府が退陣してフイヤン派が政権を握った。しかし戦争の敗北が続き、革命の危機であると捉えたパリ市民が決起して義勇兵とともに国王を捕らえるという8月10日事件が起こり、一気に立法議会解散、男子普通選挙による国民公会の成立、国王処刑へと進む中で、フイヤン派は勢力を失った。
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