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立憲君主政

君主制の一形態で、君主が主権を有するが、憲法などの法規によってその権限を制限し、国民の権利の保護を図っている政治形態。典型的にはイギリスに見られる。

 古代王権や皇帝の専制君主、中世の絶対王政などの君主制(君主政)は、通常、君主(国王・皇帝)に無制限な権限が与えられていた。多くの場合、その根拠は神の代理人であるとか、王権神授説がとられていて、臣下や国民はそれを掣肘することはできなかった。そして君主の権限は法の制限を受けず、それを超越しているとされた。ただし、君主権が恣意的に行使されると、神の怒りに触れるとか、天に逆らうという表現で、君主も従わなければならない場合があった。
 中世になると、封建領主(貴族)の力が強くなり、主として租税の賦課などの問題で国王との利害が対立する事態も起こってきた。まず貴族層が協力して王権を制限する動きが始まる。それが13世紀イギリスのマグナ=カルタである。ここから国王と雖も法の支配を受けなければならないという原理や、課税を承認するための身分制議会という国家機関が生まれてくる。
 中世末期には封建領主層が没落し、王権が強化されて絶対王政となると、王権神授説に対抗してコモン=ロー(一般的慣習法、普通法)の優先を説く思想や、自然法の理念があらわれ、鋭く対立するようになる。その過程で王権はむしろ法や議会をその統治の正統性の根拠として利用するように転換していく。同時に産業資本家を先頭に市民層(ひろくブルジョワジーという)が成長してくると、議会の重要性が増し、国王に対する議会の優位が明確になっていった。このように主権国家の形成と共に、近代の立憲君主政が生まれてきたが、それはイギリスで典型的にみられる。

近代国家の政体

イギリス立憲王政  また歴史的環境の違いから生じた王権と憲法の力関係の差から、同じ立憲君主政でもさまざまな形態の違いが見られる。典型例であるイギリスではピューリタン革命で一次共和政(コモンウェルス)を実現したが、クロムウェルの独裁を経て王政復古し、さらに名誉革命によって国王は「君臨すれども統治せず」という立憲君主政の原則が確立した。イギリス国王は政治的実権はほとんど無いが、形の上では首相の指名権などが国王の権限として認められている。またイギリスの場合は、憲法というものはなく、マグナ=カルタ権利の章典などの歴史的な文書が憲法の役割を果たしている。
アメリカの共和政  18世紀のフランスなどで発達した啓蒙思想の中で、社会契約説が生まれ広がっていくと、国家の成り立ちを、国民から権力を委任されているのが政治権力であり、権力の根源は国民の契約関係にあるという思想が一般化し、そこでは君主は国家の一機関として、憲法や法律の枠の中で統治し、また立法機関として議会が位置づけられるようになる。市民革命の時代、アメリカ合衆国三権分立大統領制などの原則をもつアメリカ合衆国憲法を制定し、憲法に基づいた国家として初めて登場した。
フランスの政体変遷  アメリカは最初から共和国としてはじまり、現在までそうであるが、フランス革命ではまず1791年憲法で立憲君主政が成立したが外国の干渉などの革命の危機が迫り、ルイ16世自身も立憲君主政を受け容れなかったことから、革命がさらに進展し、第一共和政が実現した。しかし、その後、復古王政期を経て立憲君主政・共和政の政体がめまぐるしく交替し、1848年の二月革命からは第三共和政に落ち着いた。このようにそれぞれの歴史的環境の違いから、王政から完全な共和政に移行したり、王権との妥協が図られて立憲君主政に落ち着いたり、という違いが生まれたが、いずれにせよ現在では単純な王政や君主政を採る国家は無くなっており、憲法や法律にもとずく立憲君主政を採っている。
プロイセン型立憲王政  一方、近代国家では、プロイセンの立憲君主政に典型例が見られるように、議会の権限が弱く、国王(皇帝)に大幅な権限が与えられている場合もある。日本の場合は明治憲法は明確な立憲君主政であるが、プロイセン型であった。現在の日本国憲法は天皇は元首とはされておらず、象徴であり政治的権限は全く認められいない。形の上では立憲君主政であるが、理念は共和制であり、その一形態と考えられる。
 イギリス以外で立憲君主政を維持しているのは、ヨーロッパではオランダ、スペイン、デンマーク、アジアではタイ、ブルネイなど。立憲君主政の対極にあるのが国王の存在しない政治形態である共和政であり、20~21世紀に独立した多くの国は大統領制を採る共和政である。

Episode レンタ・キング

 フランス革命によって解き放たれた民衆の巨大な力は、ナポレオンの登場によって、悲惨な結末を迎えた。ヨーロッパの旧体制は互いに協力し合って、何事も起こらなかったかのようにふるまい、1815年にウィーン会議で「自分たちが適切と考える世界に分割するための列強会議」を開いた。君主制が彼らの考える万能薬であった。こうした君主たちの共謀が大きな成果を収めたのが、ウィーン体制の時代だった。
(引用)復帰した各君主は、時計の針を絶対主義と特権の時代へと後戻りさせた。しかし、彼らもすべてを思い通りにはできなかった。フランス王は貴族への金銭的補償を奮発しすぎたために、1830年のパリ蜂起によって退位させられた。このとき、パリの人々は以前ほど高邁な理想は持たなかったため、穏健な立憲君主制か確立された。同じ年に、ポーランド、イタリア、ドイツでも共和主義者の反乱か起こった。ベルギーの人々の独立に向けた闘争はドイツの王を押し付けられるという結果を招き、前年に共和制ギリシアかたどったのと同じ運命をたどることになった。こうした狂気の時代にあって、ドイツは、他のヨーロッパ諸国を相手に、レンタ・カー業ならぬ「レンタ・キング」業を行っているかのようであった……その他ほとんどすべてのヨーロッパの王族か、20世紀にも互いに緊密な関係にあったのは、このことか理由である。<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.46>
 ウィーン体制下でヨーロッパ諸国が君主政に復帰した際、自国で復帰させるべき国王がいない国では、外国(ドイツの領邦の王が多かった)から調達した。このことをブレイジャは「レンタ・キング」と評したのだ。ベルギーとギリシアの王政は、まさに「レンタル」されたものだった。その保障は、王室同士の婚姻という形をとった。ヨーロッパの君主に外国人が迎えられるというのは、日本の感覚では分かりにくいが、「レンタ・キング」と考えればなるほどと思える。

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浜林正夫/土井正興/佐々木隆爾
『世界の君主制』
1992 大月書店