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日本国憲法

第二次世界戦後の日本で、1946年11月に公布、翌27年5月に施行された、主権在民・基本的人権尊重・戦争放棄を柱とした新憲法。

 1946年11月3日に公布、1946年5月3日に施行された日本の現行憲法。主権在民・基本的人権の尊重・平和主義(戦争放棄)を三本の柱とする戦後日本の基本法。戦前の大日本帝国憲法の天皇主権、不完全な三権分立制、貴族制度などを廃止し、天皇は国民統合の象徴とされ、男女平等の普通選挙によって国民の代表が選出された国会を国権の最高機関とし、内閣は国会に対して責任を負う議院内閣制を明確にした。
 最も特徴的な規定は第9条の戦争放棄の規定であり、第二次世界大戦の悲痛な体験への反省と、不戦条約国際連合憲章を母体として生まれた規定である。
 また、日本国憲法には、連合国軍の日本占領の基本方針として軍国主義の排除とともに掲げられた日本の民主化にそって基本的人権の規定が盛り込まれ、家父長制度の廃止、男女同権、教育の民主化、国家神道の廃止などが実現された。

資料 日本国憲法

前文 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないものであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第9条 ① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「軍隊を持たない国」

 日本国憲法が軍備を放棄し、交戦権を否定したことに対しては、主権国家としての自衛権という固有の権利を奪うものであるとして反対する声も強かった。象徴とは言え天皇の地位が残されたこと、軍備が否定されたことは主に左派からの日本国憲法反対の理由としてあげられた。しかし、国民の多数は平和憲法を戦争の反省の上に立って自ら選んだ原則として受け入れた。
 その後、「軍隊を持たない」ことを憲法で規定している国がいくつかか生まれている。中米のパナマコスタリカがよく知られている。

憲法解釈による再軍備

 アメリカは日本占領にあたり、日本の軍国主義が再び起ち上がることがないように、その軍備を徹底的に排除することを目指し、その原則を日本国憲法に持ち込んだ。ところが中国の国共内戦が共産党の勝利に終わり、1949年中華人民共和国が成立するという激変が起きると、アジアにおける米ソ対立はにわかに厳しくなった。翌年の朝鮮戦争勃発はアメリカにとってアジアにおける共産主義の広がりという大きな危機として受け止められた。そこからアメリカの対日政策が、平和国家建設から反共産主義陣営の一翼として位置づけるもの転換した。
 早くも1950年7月にはマッカーサーは吉田首相に日本の再軍備を指示、それを受けて日本政府は警察予備隊を設置、日本の「逆コース」が始まった。翌年にはサンフランシスコ講和会議で日本はアメリカなど西側諸国とサンフランシスコ平和条約を結んで主権を回復すると共に日米安全保障条約を締結、アメリカの共産圏に対する防衛同盟に組み込まれた。さらに1953年に朝鮮戦争が停戦となってから、54年3月に日米防衛援助協定(MSA)が締結され、1954年7月1日に防衛庁が設置されると共に自衛隊が創設された。

「日本国憲法」改憲の動き

 こうして冷戦の深刻化が日本国憲法9条があるにも関わらず軍隊を持つという異常な事態が恒常化した。この際、日本国憲法は国家固有の自衛権まで否定するものではなく、「自衛」のための専守防衛に徹する範囲であれば憲法違反ではないと「解釈」されたのだった。しかしそのような解釈に無理があることもあきらかであったので、保守政党の自由党は同年4月憲法調査会を発足、翌55年に保守合同により、「自主憲法制定」を党是とする自由民主党が発足する。このように憲法改正の組織的動きは、憲法制定直後ではなく、アメリカによる再軍備指令にあわせてあわせて始まった。
 しかし戦後政治は当面の経済復興が優先されたこともあって自民党も憲法改正を具体的な選挙の争点にすることもなく過ぎた。1960年、強い憲法改正論者であった岸信介内閣は日米安保条約改定は実現したものの、全国的な反安保の運動の高まりから、自己の念願である憲法改正には着手できずに終わった。いわゆる「55年体制」といわれる自民党と社会党の保革対立の構造の中では憲法改正が具体的な課題としては挙げられることはなかった。
 冷戦が終わり、世界では1991年の湾岸戦争など地域紛争が頻発するようになり、日本の自衛隊も国連の国連平和維持活動(PKO)に参加して「国際貢献」すべきであるという声が強まり、海外派遣が始まった。国内政治でも保革対立の構造がゆらぎ、1990年代に小選挙区の導入(1994年)などで非自民政権が現れるなどの変化するなかで、1994年に連立内閣の首相となった村山富市社会党党首は、国会で自衛隊を合憲と認めると発言して、長く自衛隊違憲を主張していた方針を転換した。それは社会党の分裂、衰退をもたらすと同時に国民のなかに自衛隊の存在を明文は無いものの合憲であるという意識が拡がっていたことを示していた。
 2001年に9・11同時多発テロという激震が世界を覆い、流動化が激しくなる中、日本では「自民党をぶっ壊す!」と言って選挙で圧勝した小泉自民党内閣が登場、郵政民営化などの「改革」で国民の支持を受けたが、憲法改正には踏み込まなかった。

安倍内閣での動き

 その小泉人気を継承する形で登場した安倍晋三内閣(第一次)は叔父であった岸信介の宿願を達成しようと憲法改正を正面から掲げた。まず着手したのが憲法改正規定にある国民投票の法的具体化である国民投票法であり、それを2007年に成立させた(正確には「日本国憲法の改正手続きに関する法律」)。その他、教育基本法の改訂などを実現させ、「戦後レジーム」からの脱却を標榜、平和主義・民主主義といった戦後の価値基準に大胆に挑戦した。しかし内閣の不祥事が続く中、首相自身が体調を悪化させ、憲法改正の具体的な端緒にはいることなく退陣した。
 その後、民主党政権が誕生したが普天間基地の辺野古移設問題、事業仕分けなどの腰砕け、東日本大震災・福島原発事故の対応の混乱、消費税値上げなど不人気となったことを受けて2012年に再び登場した安倍晋三(第二次・第三次)内閣において、共謀罪、特定秘密保護法など国民の主権制限に及びかねない立法と共に憲法改正を強く押しするめる姿勢を示した。勢い付いた国内の保守勢力の強い支持を受け、憲法改正を目指したが、抵抗も強いと判断したのか、自民党の憲法改正草案は正面からの改正ではなく、第9条をそのままにして自衛隊の存在を明記することによってその位置づけを合憲としようとしたものに変更した。自民党憲法草案の焦点は、自衛隊明記と緊急事態条項を急務としており、国民主権・基本的人権・平和主義の基本原則は変更しないとしている。
 安倍内閣は憲法改正に踏み込むのではなく、憲法解釈の変更によって集団的自衛権容認を可能にすることを目指した。それは北朝鮮のミサイルや中国との尖閣問題と海洋進出、あるいは韓国との竹島問題などアジアの情勢が悪化していることを理由に、自衛隊とアメリカ軍との行動をより緊密に行えるようにして、抑止力を高める、というものであった。2014年7月で憲法解釈により集団的自衛権は認められると閣議決定し、それをもとに2015年9月、安保法制案として自衛隊法などの改正を含む関連法案を一括して提示、強行採決で成立させた。 → 日本の集団的自衛権容認
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