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日米安保条約改定

1960年、自民党岸信介内閣によって進められた日米安保条約の改訂。日米軍事同盟強化に反対する運動(安保闘争)が起こったが、強行採決され、6月に成立。岸内閣は退陣し、池田内閣に交代した。

 1960年に激しい反対運動を抑え込んだ自民党岸内閣とアメリカのアイゼンハウアー大統領によって締結され、日米軍事同盟が強化された新安保条約。
 1951年に締結された日米安全保障条約(旧安保)は、日本の自衛隊発足前のもので、アメリカ軍による保護協定的な性格が強かった。1955年に保守合同で成立した自由民主党は政権与党として自主憲法制定、共産圏に対する防衛力強化を掲げて、安保条約を日米対等な軍事同盟とする改定をめざした。1957年には岸信介首相・アイゼンハウアー大統領間で改定の方向で一致し、改訂作業に入り、前条約の改定期を迎えた1960年に改定することで合意し、1月19日に調印した。国内の大きな反対運動をが起こったが、5月20日に岸内閣は衆議院で強行採決、反対運動が続く中、1960年6月19日に自然成立した。この1960年に締結された条約を一般に新安保条約といい、さらに10年後の1970年に再改定されたので、現在の日米安保条約とはこの70年に改訂されたものを言う。

新安保条約の内容

 以下に主な内容を挙げる(数字は条)。
2・両国の経済的協力を促進する。 
3・武力攻撃に抵抗する能力を維持、発展させる。 
5・日本国の領域でいずれかが攻撃された場合に共同防衛する。 
6・極東における国際の平和および安全に寄与するためにアメリカ軍による施設・区域(基地)の使用が許される(その実施にあたっては事前協議を行うことが別に定められる)。
10・10年後に締約国の通告があれば1年後に終了する。

日米地位協定

 日米安保条約の第6条にもとづくアメリカ軍(在日米軍)への基地提供および使用に関する細則を定めたもの。現在の沖縄普天間基地など具体的にはこの協定で運用されている。
 この安全保障条約改定に対し、激しい反対運動(安保闘争)が起こった。

安保闘争

1960年の日米安保条約の改定に際して高揚した軍事同盟反対の国民運動。戦後最大の大衆政治運動となったが、国会で批准され6月に成立した。

 日米安保条約の改定に対し、国内では社会党・共産党および労働組合、学生、市民の中から対米従属の軍事同盟反対、基地強化反対の声が上がった。日本が核戦争に加担し、再び戦争の道に進むことに対する強い危機からの反対運動であり、戦後の民衆運動が最高潮に達した。それに対して自民党政府はソ連・中国の脅威から日本を防衛するためのアメリカの核の傘の中にいることが現実的であるとして反対運動を抑えつけた。平和共存路線に行き詰まっていたアメリカのアイゼンハウアーも中国共産党の脅威などからアジアを防衛するためには日本を反共陣営の中に留め、軍事基地はどうしても手放せないという戦略から日本政府を後押しした。

安保改定反対運動「60年安保」

 1960年5月20日、日米安保条約改定の批准に反対する社会党・共産党を、岸信介自民党内閣は強行採決で押し切った。強行採決に対する反対運動は議会外でも盛り上がり、激しいデモが繰り返され、6月15日には全学連の女子学生(東大生の樺美智子さん)が死亡、多数の負傷者がでた。その後、条約は6月19日6月19日に自然成立したが、反対運動によってアイゼンハウアーの訪日は取り止めとなり、岸内閣は条約成立を待って辞任した。
 この「60年安保」と言われた大衆政治運動は、社会党・共産党と云った既存の革新政党だけではなく、労働組合・学生・市民が闘争に参加して、連日国会議事堂をデモ隊が取り囲むなど、かつてない規模に拡大した。デモには高校生や家庭の主婦など、幅広い人々が参加したことが特徴であった。しかし、結果的に安保条約の成立を阻止することができなかったことから失望感も強く、政治運動の市民参加、大衆運動化は岐路に立つこととなり、一部の学生運動の先鋭化に対して多くの若者の政治離れも始まった。また革新政党と労働組合の関係も複雑に分裂し、停滞が始まったとも云える。一方で、安保条約の改訂には成功したものの、自民党の掲げた憲法改正はとても無理という判断もせざるを得ず、その課題は長く棚上げされることとなった。こうして「政治の季節」は過ぎ、岸内閣総辞職後に代わって登場した池田勇人内閣の「所得倍増」のかけ声の下、60年代の日本は日米軍事同盟の枠の中で高度経済成長路線に転換していくこととなる。
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