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シモン=ボリバル

19世紀初め、ラテンアメリカ諸国の独立を指導し、コロンビア、ベネズエラ、エクアドル、ボリビア、ペルーの独立を実現した。

シモン=ボリバル
Simon Bolivar 1783-1830
 「南アメリカ解放の父」と言われるラテンアメリカの独立運動の指導者。ベネズエラのカラカスの富裕なクリオーリョに生まれた。彼が独立運動に関わった国は、スペインの植民地ヌエバ=グラナダ副王領から独立したコロンビアベネズエラエクアドルボリビアからペルーに及ぶ。

ベネズエラの独立運動

 まず1810年、ベネズエラのカラカスで独立運動が起こると、イギリスの協力を得ようとしてロンドンにわたっが失敗し、カラカスに戻って1811年7月、独立宣言を行った。ところが12年3月26日、カラカスで大地震が発生、約2万人犠牲が出たのに乗じてスペイン軍が反撃し、ボリバルは敗れ、以後いくつかの地を経てジャマイカに逃れる。

大コロンビアの独立

 1816年、兵力を整えたボリバルは南米大陸に上陸、各地を転戦し、1819年にボゴダ付近のボヤカの戦いでスペイン軍に勝利し、12月に大コロンビア(グラン・コロンビア)共和国の独立を宣言し大統領となった。その後もスペイン軍(ペルー副王軍)と戦い、1822年にはエクアドルに進撃し、キトを解放した。

ペルーの独立確保とボリビアの独立

 そのころ、アルゼンチン出身でチリの独立を実現したサン=マルティンが、北上してスペインのペルー副王軍との戦い、1821年にペルーは独立を宣言をしていたが、スペイン軍の反撃で苦戦に陥っていた。サン=マルティンはボリバルとの共闘を申し出てきたので、1822年7月、両者はグアヤキルで初めて会見した。しかし、ボリバルは独立国家の形態をあくまで共和政と考えていたが、サン=マルティンは君主政を構想していたため、ボリバルは協力を拒否した。そのためサン=マルティンはペルー独立の闘いから手を引き、ボリバルは単独で闘い、1824年にはアヤクチョの戦いでペルー副王軍を破り、ペルーの独立を確固たるものにした。さらに最後の残ったアルト=ペルー地方には、部下のスクレ将軍を派遣、その地は1825年8月にボリバルの名にちなんだ国名のボリビアとして独立を宣言した。

ラテンアメリカの連帯を目指す

 また1826年にはラテンアメリカの新たな独立国に働きかけ、ヨーロッパ諸国の干渉に対する共同防衛のための集団的安全保障体制をめざしてパナマ会議を招集したが、批准までは至らなかった。ボリバルは失意のうちに1830年の12月にチフスにかかり死去した。ボリバルの働きかけは後のパン=アメリカ主義につながる。

大コロンビア分裂

 しかし、ボリバルの構想した大コロンビアは、現在のベネズエラ・コロンビア・エクアドルを含む広大な地域であって、それぞれの地域の対立があり、1830年に分解してしまった。
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書籍案内

ガルシア=マルケス
木村榮一訳
『迷宮の将軍』
2007 新潮社

ラテンアメリカを独立に導いた栄光の男ボリバルが迷い込んだ迷宮とは何か。『百年の孤独』のガルシア=マルケスがラテンアメリカの歴史の光と影に迫る濃密な文学作品。

神代修
『シモン・ボリーバル: ラテンアメリカ独立の父』
2001 行路社