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ベネズエラ(1) スペイン植民地からの独立

南米大陸の旧スペイン領から1819年に大コロンビアの一部として独立、1830年に分離して共和国雄なった。

 南米大陸の最北端のコロンビアの東、カリブ海に面する地域。ベネズエラ Venezuela というのは、スペインの征服者たちが、この地の最大の湖マラカイボ湖でインディオが湖上生活をしているのを見て、「小ベネツィア」と名づけたことから来るという。16世紀にを求めてヨーロッパ人が侵入し始めたが、スペイン人入植者が主導権を握り、1539年にスペインのヌエバ=グラナダ副王領の一部となった。カラカスを中心にカカオ・綿花・砂糖・タバコなどの産地として経済的に発展していった。
 ラテンアメリカの独立の動きの中ではハイチに次いで早く、1811年にベネズエラ共和国として独立を宣言したが、翌12年に地震によって一旦崩壊してしまった。1819年大コロンビアの一部として独立し、1830年にそれから分離して、単独のベネズエラ共和国となった。 → 現在のベネズエラ=ボリバル共和国

ドイツ人の征服者

 「ベネズエラ地方の探検もまた、ルネッサンス期においてドイツ人が演じた地理的冒険の唯一の令として注目に値する。南米の富の様々な報告は中部ヨーロッパにも達し、アウクスブルクの豪商としてフッガー家と拮抗していたヴェルザー家は、海外の冒険事業の先手をを取った。カール5世から特許状を得たこれらの銀行家達は1531年にアンブローズ=オルフィンジャー(ドイツ名ではエーインガー)なる代理人を送り出したが、彼はマラカイボ湖の東側のコロから内陸に向かう遠征を指揮した。・・・至るところでインディアン達はオルフィンジャーの残虐行為に激怒していたから、・・・オルフィンジャーは殺されてしまい、疲労困憊した僅かな敗残兵のみが1533年にコロに還り着いたが、彼らのもたらした土産は地獄のような惨苦の物語だけであった。」ベネズエラのジャングルの奥地には体中に金をまとった「金ぴか男」の住む黄金郷(エル=ドラド)があると信じられていた。ドイツ人の探検もその伝説に動かされたものだったが、オルフィンジャー以後、数回で終わってしまった。ついで、コロンビア側からオリノコ川を下ってスペイン人がやって来た。黄金郷は見つからなかったが、ペルーに次いでスペイン領に組み込み、1539年、ヌエバ=グラナダ副王領となった(この地に最初にやってきたスペイン人、ケサーダがグラナダ出身だったので名づけられた)。また16世紀の終わりにはイギリスのウォルター=ローリーがベネズエラ沖のトリニダードなど小アンティル諸島に進出した。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.135-142>
※ドイツ人征服者オルフィンジャーはラス=カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』にもドイツ人無法者(アンブロシウス・ダルフィンガー)の残虐な行為、スペイン人たちの征服活動が告発されている。<ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀藤訳 岩波文庫 1976 p.124-130,150->

最初の独立運動

 1810年にスペイン本国がナポレオン軍に征服されたという政変が伝えられると、カラカスのクリオーリョたちはスペイン人官吏を追放して、大陸では最も早く独立運動を開始した。その指導者がミランダや若きシモン=ボリバルたちであった。1811年7月、ベネズエラの独立を宣言したミランダらはアメリカ合衆国憲法の影響を受けた憲法を制定した。同年に独立宣言したパラグアイと共に、1804年のハイチに次ぐ速さであった。しかし、翌1812年3月にカラカスで大地震が発生、社会不安が広がる中でスペイン軍が干渉して独立政府は崩壊し、ミランダは国外追放となった。

ボリーバルの独立運動

 ベネズエラの独立に失敗したシモン=ボリバルは、その後も運動を続け、1819年、ヌエバ=グラナダ副王領全体を独立させ大コロンビア共和国を建国した。この大コロンビア共和国(グランコロンビア)はベネズエラと共にその西の現在のコロンビアエクアドルを含む広範囲な地域であった。

大コロンビアから分離

 しかし、地域対立が起き、ボリバルの死の直前の1830年に分離して、その一部がベネズエラ共和国となった。分離を画策したのはカウディーリョと言われる軍事的地域ボス出身のパエスであり、初代大統領として60年代初めまで独裁的な権力を振った。
ベネズエラ国旗 ベネズエラの国旗 右の国旗の地色である黄・青・赤は、1806年に独立運動を開始したエルネスト=ミランダの掲げた三色旗にさかのぼる。ミランダが考案した三色旗は、スペインの残酷な「赤」地から、大西洋の「青」波を越えて、黄金の理想郷である「金色」の地に到達することを比喩的に表現したものである。ミランダの独立運動は失敗したが、1819年の大コロンビア共和国独立にいたって三色旗が国旗となった。ベネズエラは1830年に分離して三色旗に弱冠の修正を加え、1930年に七つ星を加え現在の形になった。大コロンビアから分かれたコロンビアとエクアドルも、地には黄・青・赤の三色を用いている。<辻原康夫『国旗の世界史』2003 河出書房新社 p.33>

ベネズエラ(2) ベネズエラ=ボリバル共和国

20世紀初め石油が産出し、豊かな国になったが、アメリカ資本の進出と共にアメリカに追従する政権が次々と交代した。1989年に富の偏在に反発した民衆暴動が興ったことを背景に、反米・民主化の要求が強まり、98年にチャベス大統領が当選、明確な反米路線に転換した。

ベネズエラ GoogleMap

ベネズエラでは20世紀にはマラカイボ地方で石油が発見され、産油国の一つとして経済を発展させていったが、石油利権を握った政権による独裁的な政治があいつぎ、安定しなかった。第二次世界大戦後はアメリカ資本の進出が相次ぎ、アメリカに追随する政権が相次いだ。

貧富の差の拡大

 1973年の石油危機(第1次)を機に、石油産業国有化に踏み切ったが、国営石油会社が利益を独占したために貧富の格差が大きくなっていった。首都カラカスにはランチョと言われるスラム街が広がっていった。80年代には政権を握った親米政権が、アメリカと結んで新自由主義経済政策を導入し、緊縮財政(小さな政府政策)によるリストラ、民営化、規制緩和、外資導入を進めたため、貧富の格差はますます拡大した。

チャベス政権成立 ベネズエラ=ボリバル共和国へ

 親米政権による経済政策に不満を強めた民衆は、1989年に大暴動(カラカス暴動、カラカソと言われた)を起こしたが、軍が出動し、スラムの住人約1000人が射殺され、鎮圧されてしまった。しかし軍隊の兵士も貧しい家庭の出身であったから、次第に民衆支持に転じ、ついに1998年の大統領選挙で「貧者の救済」を掲げて立候補した陸軍中佐チャベスが圧勝した。チャベスは翌1999年大統領に就任すると、「民主的革命」を宣言し、石油の利益を国民に分配するための国家機構の変更に着手した。国民投票で新憲法を制定、国名を「ベネズエラ=ボリバル共和国」に変更した。

親米派のクーデター失敗

 新憲法に基づく2000年の大統領選挙で再選されたチャベスは様々な格差是正のための施策を行い、また国際連合の舞台で激しくアメリカを非難し、国民の絶大な支持を受けた。2002年にはアメリカと財界に支援された親米派高級将校がCIAの指導によってクーデターを起こし、チャベス大統領を軟禁したが、市民の抗議活動と多のラテンアメリカ諸国がクーデターを非難したため失敗し、チャベスは大統領に復帰し、さらに2006年には三選された。その年の9月20日、チャベス大統領は国連総会の演説でアメリカ大統領ブッシュ(子)を「悪魔」と名指しして世界を驚かせた。

反米のスターが悪漢か? チャベス

 このベネズエラのチャベス大統領に次いで、ラテンアメリカで次々の反米を掲げる政権が誕生し、アメリカのラテンアメリカへの影響力は大きく後退している。2006年にはチャベス大統領はキューバのカストロ議長、ボリビアのモラレス大統領と会談し、チャベスが2001年に提唱した米州ボリバル代替構想(ALBA)を推進し、アメリカの中米への介入を排除する動きを強めた。また、ベネズエラは2012年に南米南部共同市場(メルコスル)に正式加盟した(しかし後述のようなチャベスの後継のマドゥロ大統領政府の腐敗が国際的に批判され、2017年に資格を停止された)。

明らかになった腐敗体質

 チャベスは豊富な石油による富を社会保障の充実などに充てて貧困層の強い支持を受け、2009年には大統領任期を無期限にする憲法の改正を国民投票で通過させ、独裁体制を堅固なものにしたが、2013年3月5日にガンで急逝し、副大統領マドゥロが暫定大統領となった。強烈な個性で世界の耳目を集めたチャベスの時代は終わったが、後継者のマドゥロ政権は反米姿勢をさらに強め、独裁的な政治を続けている。その下で石油価格の暴落を契機に急激なインフレが発生し、チャベス時代の石油依存体質、行き過ぎた国有化政策、さらに不正や麻薬密売組織との癒着などが明らかになった。かつての反米のスターは、一部の反政府活動者からは無策な独裁者、単なる悪漢にすぎないという評価も出ている。

ベネズエラの危機

 2015年の総選挙で野党勢力が躍進、反マドゥロ派が勢いづき、デモが頻発すると政権側は軍隊を動員して鎮圧、政治情勢の不安が経済不安と重なり、ベネズエラの危機が深まった。そのような中、マドゥロ大統領は大統領任期の延長を図って憲法改正を強行、国民投票で承認されたが、その際に不正な投票があったのではないかの疑いが強かった。さらに2018年に大統領選挙が行われたが、野党候補の選挙権が剥奪され、大規模な選挙干渉が行われるなど疑惑が生じた。それに対して国会は大統領選挙は無効であるとしてマドゥロの再選を認めず、2019年1月、議長のファン=グアイドが暫定大統領に就任することを宣言した。マドゥロ側も大統領就任式を強行、同時に大統領が二人存在する事態となった。
 グアイド暫定大統領は、アメリカのトランプ大統領や諸外国が支援、多くの諸国(日本を含む)が承認したが、マドゥロ大統領も中国やロシア、キューバなどラテンアメリカの一部から支持され、内戦の危機が高まった。アメリカはマドゥロ政権に対して経済封鎖をかけ、ロシアは政権側に軍事支援するなど国際的にも緊張が高まりった。両派はそれぞれデモや集会を開き、一時はグアイド派が優勢とも伝えれたが、マドゥロ派は大衆の反米感情に訴え、今のところグアイド派の動きを抑え込んでいる。<2020年3月記>
 マドゥロ政権の強硬姿勢が続き、経済回復が進まない状況の中で、多数のベネズエラ難民が発生している。特にマドゥロ政権と対立しているコロンビアなど、周辺諸国に逃れている。国連も難民認定を行い、その総数は400万に上るとも言われている。

参考 石油依存体質の危機

 ベネズエラは、世界第二位の産油国で、原油生産がその経済を支えていた。主力原油山地であるオリノコ川沿いのオリノコベルトといわれる一帯には多くの石油掘削装置が並んでいるが、その多くが稼働していない(2018年6月現在)。現在は国営石油会社PDVSAが経営しているが、かつては日産300万バレルをこえたのが、現在は154万バレるに落ちているという。
 1999年大統領となったチャベスは「21世紀の社会主義」をかかげ、PDVSAに対し国庫への拠出を増やすよう求めた。2002年、経営の独自性を守るためゼネストが起きるとチャベス政権はストに参加した職員約2万人を解雇、そのため経営部門から技術部門に及ぶ専門職員が去り、「頭脳」を失うことになった。PDVSAから吸い上げた1000億ドル(10兆円)以上の巨額資金は社会政策にまわされ、貧困層向けの無償住宅建設や無料診療所開設、格安の食料販売などが実現し、チャベス氏の人気は絶大になった。当時の原油価格は一時1バレル=100ドルにも高騰していたので、「原油価格の値上がりがチャベス政権を助けた形となった。
 ところが2013年、後継のマドゥロ政権になるとともに原油価格が急落した(原因はシェールガスなどの実用化が進んだことが考えられる)。2014年から下がり始め、16年には1バレル=40ドルに下落、原油輸出にによる外貨獲得はままならない状態となり、9割を原油に依存(そのうち3割が対米輸出)していたベネズエラ財政は急激に危機を迎えた。ハイパーインフレで物価は急騰、2018年のインフレ率は1万3000%超と推計される。首都カラカスのスーパーでは5月、月額最低賃金100万ボリバル(1・36ドル)とほぼ同額で牛乳やパスタが売られていた。貨幣経済は崩壊状態になった。
 依然としてアメリカ帝国主義は敵であるという姿勢を崩していないマドゥロ大統領であるが、国際社会での孤立をさけ、対米関係の改善も模索する必要があると考えられる。<毎日新聞 2018/6/18>

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書籍案内

生田育法・牛島万編
『混迷するベネズエラ——21世紀ラテンアメリカの政治・社会状況』
2021 明石書房

伊藤千尋『反米大陸』
2007 集英社新書

2000代初めのチャベスが元気な頃に出版された。現在から見れば状況は大きく変わっているので、現状を知るには適さない。